整体に整体師は要らない!?

整体師範 香野勇雄 のブログです。

日本人の特殊な能力

こんにちは。江の島整体施術長 整体師の香野です。

 

雨、風、暑さ、運動不足、マスク、ダメな〇〇、無神経な□□…色々な逆境と向き合うこの梅雨、

皆様は如何お過ごしでしょうか…。

 

今回のコラムもシリーズ『免疫』の ❝箸休め❞ の回にしようと思います。

&巻末に幾つかインフォメーションがございますので宜しければ目を通してみてください。

 

それでは…すみません、また余談からスタートさせてください。

 

 

庭のキキョウです。このすぐ隣にもう2輪、全部で4輪の白い花を咲かせています。

 

激しい風が吹く今年の梅雨の中で可憐に咲き、強風をかわしながらしなやかに揺れている…、一見弱々しそうに見えて、実は強く美しいその姿を見ていますと、こう…今の世の中に対する戸惑いが晴れるとでも言いましょうか、「あ、この感じ目指しましょう!」みたいな気持ちになるのです。

 

…それでは本編に入らせていただきます。

 

前回は「中医学」の考え方を基に展開したセクションがありました。(覚えていますか?)

この「中医学」とは「中国伝統医学」のことなのですが、今回はこの「伝統医学」というものについて軽く触れたいと思います。

 

🥼

 

伝統医学」と呼ばれるものは、抗生物質や外科手術などの即効性の高い対症療法が無い時代に発生したものですから、基本的には何れもが未病に対する原因療法であり、即ち免疫を高める方法論について探求し体系化されたものであると言えます。

 

代表的なものとしまして、中国地域(国家としてではなく)発祥の「中医学」の他に、インド大陸発祥の「アーユルヴェーダ」、ギリシア医学を起源にアラビア文化圏&イスラム勢力圏で発展した「ユナニ医学」などの代表的なものがあります。

そして、それら3つを総称して

 

『世界三大伝統医学』

 

と言ったりします。

これらは今現在も尚、世界中で発展し続ける多種多様な予防医学や補完代替医療の分野に於いて、そのエビデンス的な役割を担っている存在でもあります。

 

🥼

 

これが「伝統医学」の学習としてのコラムなのであれば、本日は「中医学」について、そして次回は「アーユルヴェーダ」と、それぞれを回ごとに分けてしっかり説明するのが正当な展開かと思います。が、僕がこの先で語りたいことが「伝統医学」とは別のところにありますので、それらを極力簡潔にザックリと一言で語ってしまいたいと思います。(「伝統医学」に詳しい方、しっかり勉強された方、どうか見逃してやってくださいませ)



中医学は、陰陽や五行のバランスを整えることが重要とし、その方法論として、漢方薬鍼灸、按摩、薬膳(養生)、気功などを用います。

 

どの方法論も日本に古くから根付いているものばかりで、例えば「おばあちゃんの知恵」と言われるような民間療法の中にも「中医学」由来のものが多くあるように思います。また、実際は後述の「アーユルヴェーダ」を含めて『東洋医学』でありますが、近年まで日本で言われて来たところの『東洋医学』は「中医学」を示す別称であるという考え方でも良いかも知れません。



アーユルヴェーダは、体質をつかさどる要素、風(ヴァータ)、火(ピッタ)、水(カパ)の3つのエネルギー(ドーシャ)のバランスを整えることが重要とし、その方法論として、食事療法やヨガ、瞑想などを用います。

 

日本でもブームになってから長いようですが、その本質を知る人&説明できる人は少ないのではないでしょうか…? 実際僕もその1人なのですが、自分が施術で用いる「気」のコントロール方法や解釈が、実はこの伝統医療にそのルーツがあるということを、最近になって感覚的に把握したり、また、妻が「アーユルヴェーダ」のプラクティショナーであるお陰で、実生活を通じてその効能を実体験しながら ❝何となく❞ その言わんとすること&実態が見えてきている感じです。

 

伝統医学の1つにチベット仏教由来の「チベット医学」というものがあり、これを入れて『世界四大伝統医学』とされることもありますが、この「チベット医学」は「アーユルヴェーダ」が基になっていると言われています。



「ユナニ医学」は、4つの基本体液「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」のバランスを整えることが重要とし、その方法論として、食事療法や生薬の処方、整骨やマッサージなどを用います。

西洋医学の基になった伝統医学でもあります。

 

下痢・嘔吐・瀉血など、強制的に悪い体液を排泄する治療方も特徴的で、そこには「カラダの中にいる悪いものを追い払う」という考え方が根底にあります。この伝統医学は後に西洋医学として発展してゆくこととなりますが、その考え方が西洋特有の「悪いものはそもそもが悪いものなので、好転することは考え難く、それらは排除すべきものである」という排他的な思想を育んだと考察することもできます。

 

🥼

 

さぁ、かなりの駆け足…というか ❝大股❞ で『世界三大伝統医学』を見てきましたが、更なるご興味が湧いた方は、上記文中にあるキーワードを取っ掛かりにリサーチしてみてください。

 

さて、長くなってまいりましたので、そろそろこの辺で…

今回は本題である『日本人の特殊な能力』のプロローグの部分だけとなりましたが、この続編はまた近々お送りする予定です。

 

⇒我々日本人が自ら恥じている日本人特有の性質が、実は世界に誇る唯一無二の免疫を高める能力であるという…そんな内容に迫ってまいりたいと思っております。

 

それではまた次回お会いしましょう。

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

 

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。 

 

 

 

内在するチカラ

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

 

さて、これまでシリーズ『免疫』では、免疫を下げる食べ物ワースト3のうち、砂糖と小麦について書きまして、次は遂にしんがり=乳製品!となるところなのですが、一旦その前に ❝箸休め❞ の回を設けようと思います。

 

これは駄目!それも駄目!おまけにあれも駄目!と、立て続けに嗜好性に対する否定論を突き付けられますと、誰だって元気を失いますし、そうなってはそれこそ本末転倒ですので…。

 

 

これは、先日自宅マンションのゴミ捨て場で撮ったスナップです。

回収時間ギリギリのタイミングでゴミを出しに行ったものですから、これを発見した時は駆け足でカメラを取りに戻りまして…間に合いました。

 

※ゴミも個人情報なので、中心部分以外はモザイク処理を掛けております

 

素敵です。

 

この方(勿論どなたか判りません)のお陰で、その周りにあるゴミ全体の価値 ⇒ このマンションの住民全員の質が上がっているような感じがして、僕はこの方に感謝したい気持ちになりました。

 

ここ藤沢市は、ゴミ出しの分別がかなり細分化されていまして、最近のお若い方の言葉をお借りして表現しますと ❝メンドクサイ❞ のです。ですから、猶更この感謝を忘れてしまいがちになり易い環境だとも言えます。

 

こんな風に感謝を伝える、これって ❝やった方が良いのにやらないこと❞ の1つだと思います。

そして、こうした行動は「謙虚な啓蒙活動」であるとも言えます。

 

ああしなさい、こうしなさいという押し付けがましいアプローチではないからこそ、これまで素直になれなかった人の気持ちも、自然と動かしてしまうチカラがあるように思います。

 

この方は、現代という「怠け者支援の時」が ❝葬ろうとする宝❞ を今も携えている貴重な人です。

 

僕の価値観での ❝勝ち組❞ とは、こういうことがスッと出来てしまう、素軽く隣人を幸せにしてしまう心の有りようを手に入れた人達のことです。上手にお金を儲けた方々につきましては…そう、「1/芸達者」という感じです。

 

「こういうの嫌い!スタンドプレー!」…え?そうでしょうか? 

 

誰のものだか判からないゴミだからこそこうしたであろうわけで、むしろ全員の心の内を代弁しようとした行動だと、僕は受け取っています。これは ❝粋❞ な行動です。

 

仮にスタンドプレー的な行動であったとしても良いと思います。こういったことは受け取る側の問題です。

 

偽善であると見透かして行動をケチるよりも、無垢に感化され善行を積むことの方が、格段に魅力的だと思います。

 

…ただ、確かに、ある行動と出くわした時、人それぞれ抱く感情が異なることも事実です。

それが人間であり、人間社会なのだと思います。

 

🙏

 

❝寄り道❞ になりますが、

ここで少しばかり人間の「感情」というものについて触れたいと思います。

 

さて、(いきなりですが)皆さんはご存知でしょうか、

 

「感情」はカラダに悪い

 

ということを。

せっかくの寄り道ついでに、もっとしっかり言っておきましょう。

 

どんな「感情」であれ、総ての「感情」はカラダに悪い

 

のです。

意外に思われるかも知れませんが、どんな感情でも持った時点でその宿主が健康に生きようとするエネルギーを消耗させる = 奪うのです。

 

「はぁっ? そんことあり得ない、それ嘘!」という方、少なくないかも知れませんね。

が、実際に人間が抱くあらゆる感情は、カラダ…特に内臓に疲労をもたらしているのです。

 

「大嘘! 喜びはカラダに良いに決まってんじゃん!」…いや、例外ではありません。

喜びは「心臓に負担」を掛けます。

 

古代中医学に「五行」という体系化されたの考え方があって、その中に感情と内臓の関連について考察された「五志」があります。この「五志」は、肝臓→怒、心臓→喜、脾臓(消化器系)→思(思い悩む)、肺→悲、腎臓→恐、という相関性を説いています。つまり、肝臓に於いては負担を掛ける感情が「怒り」である、ということを示します。

 

逆に肝臓の負担を軽減させるには、肝臓を癒す別の感情が在るわけではなく、「怒らない」という状態をもって肝臓を休める、となります。今『免疫』のシリーズの方で連載している ❝引き算❞ で…の考え方とよく似ていますね。

 

僕は中医学についてさほど詳しくはなく、それを意識しての施療も特に行いませんが、この「五志」に関しましては、その相関性が基本的には真実であることを自らの臨床が裏付けることとなっており、そうした内容を頻繁にお客様にレクチャーさせていただいております。

⇒「はいはい、何度も聞かされました」という方、この読者の中にも結構いらっしゃることと思います。

 

古代から現代に至るまでの人間の変化、また日本人特有の複雑な感情などを踏まえ、僕なりの見解として「五志」+α な点もありますので、ここら辺の話も機会があれば、このコラムの中でいつかお話しようと思います。

 

さて、勿論言うまでもなくですが、人間である以上、感情を抱かずに生きてゆくことなど現実的に不可能ですから、誰しもが生きていく中でその疲労はコツコツと蓄積し続けているわけです。

 

感情の起伏が激しい方、喜怒哀楽が極端な方など、一見元気そうに見えるのですが、カラダを触診させてもらったりしますと、皆さんほぼ例外無く慢性疲労の状態にある、というのが僕の実感するところです。分かり易い状態で言うと「カラダが硬い」人が多いです。

→内臓は疲弊しますとその外側の「鎧を強化する=筋肉を強張らせる」ことのよって自分を守らせるのです。

 

しかも、この種の疲労は別の方法論ではリカバリーがされ難いという特徴があります。

つまり、感情による疲労は、食べ物や運動、休養や睡眠などでは中々解消されないのです。

 

こうした、性格が創り出す疲労というものは、原因因子が生産されるスピードがカラダが持っている復元力のスピードを遥かに勝りますから、その場しのぎの「気分転換」などでは解決には至りません。

 

もし、長期的に「無感情」を貫くことが可能なのであれば、カラダに備わる復元力がその蓄積された疲労を徐々に解消してくれるのでしょう…が、先程も申しました通り、悟りの境地からは程遠い世界に生きる我々に取りましては、それは非現実的な話でしょう。

 

疾病まで至らずとも、特に肝臓、腎臓が疲弊している人の頻度は相当なもので、その原因の多くが内面的なもの=感情に起因するケースが殆どであると、僕は思っています。

 

…ただ、その疲労を猛烈なスピードでリリースし、免疫を劇的に高めてくれるモノがあります。

薬でもサプリでもない、瞑想でもヨガでもない、人の心から発現する「エネルギー体」、それは、



「 感  謝 」

 

です。

 

今回は珍しく(→恐らく初めて)冒頭の写真が本題に直結する展開となります!

 

🙏

 

お断りしておきますが、このコラムは、倫理学研究でも無ければ、勿論宗教でもありません。

 

これをお読みになってくださっている皆さま = 僕にとって特別な人々には、この場を借りて僕ハッキリ伝えさせて頂きます。

 

「感謝」は、人間が自ら発現できるエネルギーの中で

 「改善因子」として作用する、最も強力な「エネルギー体」 です。

 

どの感情にも属さないこのエネルギー体は、発生しても or 受容しても…即ち、

 

感謝しても、感謝されても、

体内に宿った「邪」を「正」に転換させながら「正」を更に増幅させる

唯一無二の強烈なチカラ

 

を持っています。

そう、感謝を伝えても、伝えられても、カラダが良い状態へと導かれるので、人と人とが関わるシーンでは、どちらか一方が感謝を伝えればその両者の健康状態が上がり、免疫も高まるのです。

 

そして、ここが重要なポイントです。エネルギーという観点からすれば、

 

「感謝」は「気持ち」ではなく「行動」です。

 

皆さん、こんな経験はないでしょうか。

ただ責務としてやっていた作業や仕事に対し、ある時「あれ、凄い助かったよ!ホント有り難うね!」と伝えられ、その後に同じ作業やったら今まで味わったことのない、爽快でスッキリした感覚がカラダにみなぎった。 

 

以前「スッキリした感覚」は、免疫が高まったことを知らせるサインである、ということをお話したかと思います。

 

ここで起きたことは、謂わば「感謝の連鎖」です。

感謝を伝えられたことにより責務に対する感謝が発現した…もうこうなりますと免疫急上昇です。

 

🙏

 

さて、

話が長くなってまいりましたので、最後に興味深いお話を1つして締め括りたいと思います。

 

医師から余命通告を受けた癌患者の中に、医学的処方を受けることなく、或いは最小限に抑えながらも、奇跡的な(→現代医学としては認めるわけにはいかないような?)回復を成し遂げた方が世界中に数多く居る、という事実をご存知の方もいらっしゃることと思います。

 

僕は幾つかの書物などからそうした事例を調べたことがあり、また実際に何人かの癌患者を完治させたという生活指導者とお話をさせていただいたこともあります。

 

勿論それらには多種多様なケースがあります故、これをこうしたから治癒に成功した、だから癌になっても誰しもがこうしたら治る確率が高い、などと言うことは決してできません。

 

ですが、そうした方々の多くに ❝ある共通点❞ がある、と言うことはできるかも知れません。

それは、

 

闘病生活の早い段階で、癌である実情を受容することに成功し、これまで生きて来られたこと、今現在生きられていることに対する「感謝」の気持ちが湧き起こり、癌に侵された現況を憎むことから解放され、それを期にあらゆるモノの見方や日常での行動が一変した。

 

という共通点です。

 

🙏

 

さて、今回はこの辺で失礼します。

 

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

 

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。 

 

 

「湿」の影響

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

 

 梅雨入り直前の散歩がてらのスナップです(引地川沿いの空地に咲いていた紫陽花)

 ※ソフトフォーカス処理は携帯電話のレンズ汚れによる事故です。

 

さて、早いもので気が付けば今年ももうじき前半終了となるわけですが、今年は季節感というものの実感が持てないまま、漠然とカレンダーをめくり続けるような…そんな時間の経過になっているような気がしています。皆さんは如何でしょうか?

 

そんな今年の後半は、積極的に「季節感を取りに行く」という意識が特に必要かと感じています。

そこで新シリーズとしまして『季節とカラダ』というのを設けまして、ここでは、季節によって気を付けるべきことなどを書いてゆこうと思っています。

 

 

梅雨です。

長雨やジメジメとした湿度の高い環境が苦手で体調が下がってしまうという方、かなり多いのではないでしょうか? 実は僕もその1人だったりします。

 

この季節は、非常に原始的な道具⇒恐らくは発明されて以来ほぼ進化していないであろう日用品に頼る頻度が著しく増える時でもあります。⇒傘です。

 

あれ、もう少し何とかならないものかと、雨の中出掛ける度、僕は考えてしまいます。

 

A.I.がどうたらこうたらとか、5Gになればどうたらこうたらとか…実は誰も心から望んでないような気がするのですが…そんなことよりも、傘!どうにかしてください、っていう感じです。

 

そもそも荷物になりますし、紛失物No.1&その都度買い足しで環境にも良くないですし、何よりも傘をさした時の、あの…何と言いますか…ビールジョッキを持たされたまま乾杯お預けな感じとでも言いましょうか…屈辱的な恰好のキープ、皆さんよく何事もないようにしているなぁと、根性無しの僕はいつも感心しているのです。(しかもあの体勢はカラダに良いと決して言えません)

 

もういい加減、雨のしのぎ方においても、人類はネクストステージに…傘も持たず、雨合羽を着る必要もない、そんな時代入っていく時なのではないでしょうか!

 

…余談でした。完全に。

&おっさんのボヤキになっている気がしましたので、傘の考察(クレーム)はここまでにします。

 

 

さてこの季節、、雨というカラダの外を取り巻く水が賑やかになるその一方で、カラダの中に有する水は寂しく非活動的な状態になってしまいます。

 

ここからは中医学も引用しながら「湿度と体内の水分の関係」について見ていきます。

 

「水滞(すいたい)」という言葉、聞きなれない方も多いかと思います。

これは中医学の言葉で、体内の水が停滞して偏在している状態(=水毒)を言います。

 

カラダが「水滞」になりますと、浮腫み、めまい、夜間頻尿、鼻汁や痰、倦怠感、筋肉痛、喘鳴、関節痛、食欲不振、吐き気、下痢など…様々な症状が現れます

 

特に梅雨期の「水滞」は「湿邪(しつじゃ)」がもたらすものです。

また聞きなれない言葉の登場ですが、この「湿邪」も中医学の言葉で「水の邪気」を表し、

湿気によって体内に溜まった余分な水分や老廃物が引き起こす体調不良をそう呼びます。

 

僕自身が行う施療に於いては、正気、邪気、と対比的な2分を「気」に対して宛がうことはしていません。「気」は常に「正」であろうとしてこの世に存在している、と僕は思ってるからです。その理由は「流素(るそ)」の存在です。

この「流素」につきましても、いつかお話しましょう。(ググっても出てきません)

 

 

カラダの組織中に水分が一定量確保されている状態は、カラダが存続するために自らが作り出している極めて重要な*恒常性ですが、ここで大切なのは絶えずその水分が循環し排泄&補給されながらリニューアルを繰り返し続けることです。が、外気の湿度が高いと汗が出難い状態になります。

 

*恒常性とは、生体の内&外部の環境因子の変化に関わらず生体の状態が一定に保たれようとする性質、状態のこと。

 

発汗は気化熱によって体表温度を下げるための機能で、湿度が高いと大気が受け入られる水分量が少ないために、発汗が意味をなさないと察知したカラダは汗を出さなくしてしまうのです。

 

そもそも人類に体毛が無いのは、発汗を積極的に促し体温の上昇を防ぐためだと言われています。ですから、人間のカラダは汗をかけない多湿の環境が、その構造的に得意ではないのです。

 

汗をかけなくなったカラダは余分な水を溜め込むことになります。

体内にあるものは全て体温と同じ温度に近付こうとしますが、そうさせるのはカラダがエネルギーを消費する「代謝」によって発熱を続けるからです。

 

例えば、やかんに水を入れ、この水を沸騰させることなく、36℃に維持しようとしたとします。

 

そのためには、水の量に対し ❝絶妙な火加減❞ に調整されたコンロに乗せ続けることが必要です。

 

しかし、液体である水(この時点ではお湯)は、気化(蒸発)しますから、気化して減った分だけその都度水を補充しないと、お湯はその量を減らし続け、沸騰し、やがて失くなってしまいます。

 

逆に、やかんに必要以上の(気化して減った量より沢山の)水を継ぎ足し、その火力を変えずにいたら、お湯は初めより温度を下げた状態に保たれることとなります。

 

上記は体温が適正に保たれるメカニズムの比喩で、やかんは「カラダ」、水は体内の「水分量」、 ❝絶妙な火加減❞ は「代謝」にそれぞれ置き換えることができます。

 

何となくお判りいただけたかと思いますが、

つまり、カラダに「余分な水が停滞」している状態は、即ちカラダが「冷え易い状態」「低体温に陥り易い」であるということなのです。

 

低体温の人は免疫が低いということ、皆さんご存じかと思います。(癌に成り易いとも言われていますね)

 

 

梅雨独特の「暑いんだか寒いんだか分んない」という感覚、皆さん身に覚えがあるかと思います。

 

この時「体の表面は暑さを感じているが芯は冷えている」という状態にある可能性が高いのです。

 

そして、これが日本独特の梅雨前線(or秋雨前線)がもたらす湿邪の”質”と言って良いでしょう。

 

そう感じた時は(言うまでもなくですが)何はともあれ、カラダを温めましょう。

特にこの時期は先にも述べたように感覚的な暑さが同居しますから、

冷たい飲み物を摂りがちになったり、温かい食べ物を摂らなくなったりしがちです。

 

先ずは小腸(=免疫の要)を冷やさないという意味においても、意識的に温かいものを飲み、温かい食べ物(野菜も生でなく加熱したもの)を食べてカラダを内側から温め、服装も暖かいもの(+通気性が良いもの)を着ましょう。

 

水滞を改善する手段として、体内の水分&塩分調整に役立つミネラル「カリウム」を積極的に摂るという方法論もあります。が、体質や体調によって(特に腎機能が著しく低下しているような状態)は健康上マイナスに作用することもあるようなので、万人に「してみてください!」とは言えませんが、健康体であれば効果は高いと言って良いかも知れません。

 

 

後は湿邪を遠ざける方法を…となるのですが、ここで「湿」と「邪」に分けて考えてみます。

 

少し話が変わりますが、

皆さんはインドネシアの田舎などに行かれたことありますでしょうか?

 

雨季の日中などは日本の比ではないレベルで、絶えず湿気がカラダにまとわり付きます。勿論エアコンは無く、それを洗い流す手立て⇒よく落ちる石鹸&熱いシャワーもありません。

 

カラダも服も超ベトベトで不快です。が、何故か嫌ではない→

 

「不快」だけど「不愉快ではない」

 

のです。そう、何というか、

 

「湿」は大いに在るが「邪」が伴わない

 

という感じなのです。

この理由は恐らくですが、簡単に言うとそこの地に於ける共通の認識として「仕方のないこと」「当然のこと」になっているので、カラダが受容できてしまうのだと思います。

 

つまり、常に体調を快適な状態に保持することに固執し、またそれが叶う人工的な環境が備わっていたりすると、起きて当前の変化に対してもカラダはネガティブに反応してしまうのではないかと…そう、思うのです。

 

現代人の体調不具合に陥る際の起点が、メンタル(精神面)にある頻度が非常に高いと言われるその理由が、正にこの「快適にしようとし過ぎ」にあるのだと、僕は感じています。

 

本当にカラダのことを思いやればこそ、

 

自然環境からの影響で起こるカラダの変化は「ある程度受け入れるべき」

 

というのが、僕の個人的見解です。その変化も含めて「恒常性」なのだと思っています。

 

これは僕自身が、自分自身に課していることでありますので、皆さんもそうすべきだ、そうした方が良いのだ、と言うことではなく、あくまでも1/提案として受け止めてください。

 

…さて置き、

纏めとして繰り返しになりますが、梅雨は心してカラダを中から温め、外からも暖めてください!

 

 

そして、最後に重要な豆知識をお伝えしておきます。❝一生もん❞ の情報です。

 

季節を問わず、カラダ全体の冷え防止において重要な部位はズバリ、

 

踝(くるぶし)

 

です。これ、覚えておいてください。

例えば足が冷えた時、爪先を温めても足もカラダも温まりません。温めるべき場所は踝なのです。

 

何故? その理由を…となりますと『進化論』から掘り下げる長〜い話になってしまうのですが、

超掻い摘んで「勘の良い人だけ判かってください」的なスタンスで申しますと、

 

人=下肢だけで直立してしまったが故に直角に折れ曲がった足首を持つ生物

 

なわけです。(「?」だけど知りたい!な方はご連絡ください)

 

「カラダを冷やさない為には腰を温めると良い」というのは常識としてご存知かと思いますが、足首というところ=アキレス腱~踝~踵までの部位は、腰回りの環境と深く連動しています。なので足首は「両手に収まる腰部」という認識を持っていただいても良いかと思います。

 

さて今回はこの辺にしまして、失礼致します。

 

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

 

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。

 

江の島整体 再開

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

臨時号をお届けします。

 

6月1日より、江の島整体『癒芽身』が営業を再開しました。

営業時間などは、0466-298-0688:えのすぱ代表 までお問合せ下さい。

  

🏠

 

下の写真は、自宅キャビネットに置かれましたポトス達です。

 

 

実は彼ら、皆『癒芽身』のポトスの子供達なのです。

 

『癒芽身』施術ルームの窓枠に飾ってある3鉢のポトスは、長く伸び過ぎてしまうとその都度よきところで枝を切るのですが、今回の長期休館に入る直前にも切りまして、で、その切った枝々をビニールに入れて持って帰って来て、今こうして僕のキャビネットの上で元気に暮らしているというわけです。

 

是非彼ら(我が家ポトス)の親(癒芽身ポトス)にも会いに来てくださいませ。

 

🏠

 

この休館中、僕の自宅を訪れて施術を受けて下さった方は、何故か皆さん「あちらが再開しても、また此方に伺って宜しいですか?」と言って帰って行かれます。とても光栄ですが複雑な心境になります。

「コロナ騒動から江の島自体の「気」が下がった」、とおっしゃる方も居て…

 

「気」に関しては、僕が住んでいる場所の方が高くなってしまうのは仕方ないのですが(それを生業にしています故)、施術料金に関しては『癒芽身』の方がお安いコースも在る分お得だとも言えますし、施術ルームについても、窓から見える景観などは僕の自宅よりも優れた空間だと、僕自身は思っております。

江の島整体『癒芽身』を今後とも宜しくお願い致します。

 

それでは、近日アップの次回コラム「失われたチカラ」(暫定)をお楽しみに…。

 

 

免疫を強化する方法④

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

ここ2回ほど新しいカテゴリーでお届けしました。今回は後回し×2で久々となってしまいました『免疫と深く関わる食べ物』の続編で、小麦について考察していきます。

 

…その前に、余談に少しだけお付き合いください。

 

 

ここ数日の初夏を思わせる陽気で一気に庭のバラが咲きました。

バラ? と思われた方、頭の中に浮かんだのは、所謂…こう…高島屋っぽいというか、艶やかな「バラ!」だと思います。が、これは控えめに&可憐に咲く「野ばら」です。

 

僕は一年の中で今くらいの時期が一番好きで、特に5月は外を散歩しながら全身で ❝息吹浴❞ を満喫して過ごす特別な月なのですが、今年は家の中で過ごす「1/知らぬ間に過ぎてゆく月」になってしまっていて…まぁ、仕方ないことなのかも知れませんが、とにかくとても残念に感じていまして…というところに!「野ばら」です。その花々がふと目に入るたび、何となくいい気持ちです。

 

こうして、初夏の晴れた日の身近な風景を1日中ゆっくり拝見するという、もしや生まれて初めての経験をさせてくれる今年の5月も、実はそう悪くないのかも知れない…そう思ったりします。

 

…さて!小麦の話に入ってまいりましょう。

 

👑

 

では、『免疫と深く関わる食べ物』連載のこれまでを、ザザッと振り返ってみます。 

 

健康を手に入れるためには「何を食べるか」ではなく「何を食べないか」で免疫を高めることが重要。砂糖、小麦、乳製品、この3つの食品を食べないことで免疫が格段に高まる。逆に、これらを日常的に摂取することで免疫が大幅に低下してしまう。

先ず砂糖に於いては、全身の血液&血管を粗悪な状態に変貌させてしまう。(バックナンバーは こちら

 

と、こんな感じでした。

そして今回は、食べないに越したことはない食品2つ目、「小麦」についてです。

 

「ってことは、グルテンフリーとかそういう話?」 おっ!素晴らしい、健康意識が高いですね。

ただ、「グルテンフリー」がどうのこうのと、その言葉に寄せて展開しますと、ありきたりの ❝お勉強会❞ っぽくなってしまいますし、アレルギーとか…つまり、体質的に向き不向きがあって、反応が出ない人には無関係、という方向にも意識が行き易くなります。

ですので、ここではあまりその「グルテン」とか「グルテンフリー」という言葉には縛られずに、日常のシーンを一緒に振り返ったりしながら感覚的な共有をしたいなぁと、そんな風に思います。

 

👑

 

このところの ❝美味しいパン❞ ブームは、未だ終わることを知らない勢いなのは言うまでもなくですが、「コムギ」って聞くと、どこか爽やかで、軽やかで、忙しく頑張る人のライフスタイルを応援しているような、そんな快活でヘルシーなイメージまでも感じてしまうように思います。

 

また、特に好物というわけではなくとも、特にお腹が空いていなくとも、とりあえず食べられてしまうのが、この小麦を使った食品の特徴と言えるかも知れません。

 

サンドウィッチ、パスタ、ピザ、パンケーキ、ラーメン、餃子、肉&餡まん、うどん、蕎麦…

 

「蕎麦はそば粉」と認識されている方が多いかと思いますが、実は市販のものや、お蕎麦屋さんで扱ってるものの多くが、そば粉以上の割合で小麦粉が(❝かさ増し❞の役割で)含まれているのが実情です。

 

そんな ❝とりあえず時❞ の理由についてはどれも、

 

「お手軽なので…」

 

「食欲が無い時でもスッと入るので…」

 

「ゆっくり食べてる時間が無い時は…」 などなど

 

と、こんな感覚が伴っている場合が多いのではないでしょうか…? 

そして、それらの理由から小麦の食品共通の ❝イイところ❞ が見えてきます。それは、

 

「食べたくなかったのに食べられてしまう」

 

という特徴です。

 

👑

 

小麦から作られた食品は「食べる」を軽やかで楽しい作業に変えてくれるものばかりだなぁと、そんな印象を僕は持っています。

口を開けてから飲み込むまでの一連の流れ、そのどこを取ってもとても魅力的です。

 

わくわくする香ばしさ、柔らかな舌触り、

軽い歯ごたえ、優しい口溶け、滑らかな喉越し…

  

そう、食べ物が喉の先に収まるまでの時間、何とも言えない良い気分にさせてくれるのです。

僕も「食べる」ということに関してだけ言えば、小麦の食べ物は大好きなものばかりです。

 

ですが、そこから先…これがどうも宜しくありません。

 

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僕は整体師という職業柄、自分のカラダを使って健康状態の変化をテストすることを頻繁に行っています。軽い ❝セルフ人体実験❞ とでも言いましょうか…。

 

小麦に関しましてもそれを行っていまして、「減小麦」を初めてから現在まで、継続することおよそ6年くらい、「小麦抜き」にバージョンアップしてからはおよそ1年くらいになります。

 

砂糖の回では言いそびれてしまいましたが、「シュガーカット」は7月で丁度1年になります。

 

小麦を絶ってからの体調変化としまして、ハッキリと体感したことが幾つもあるのですが、その全てをひっくるめた印象を一言で申しますとこんな感じです。

 

小麦を食べないと カラダが軽い。

 

そう、とにかくカラダを動かすことが楽になりました。

そして、重ダルさがカラダから無くなってくれたことで、以前=小麦を摂っていた頃が

 

実は「いつも疲れた状態」だった

 

ということを知ったのです。

 

往々にして、悪い状態というものは それが改善して初めて「今まで悪かったのだなぁ」と気付くものです。カラダに於いてのそれが顕著なのが、整体を初めて受けた時だったりします。

 

今、改めて小麦を普通に摂取していた頃を振り返りますと、立つことにも、歩くことにも、ベッドから起き上がる時ですら…こう、いちいち重力と闘っている感覚が伴っていたとでも言いますか、カラダがその時置かれた場所にフィットするのに、常にワンテンポ遅れ続けているような…そんな、「カラダがいつも重い状態」だったんだなぁと、実感するのです。

 

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ところで、「軽い」という形容詞はこれまでたびたび登場していると思います。…お手軽、軽やか、軽い歯ごたえ、そして前段の「カラダが軽い」です。 

 

なるほど、小麦は「軽さ」が持ち味なのですね~。 …いや!ちょっと待ってください。

前段で、小麦を食べないと「カラダが軽い」けれど、食べると「カラダが重い」というお話をしました。

 

ということは、食べるまで …つまり、口の中までは軽いけど、そこから先は重くなる、ということになります。

前述に小麦の食感についての魅力的特徴を書かせていただきましたが、そこにヒントがあります。今一度見てみましょう。

 

わくわくする香ばしさ、柔らかな舌触り、

軽い歯ごたえ、優しい口溶け、滑らかな喉越し…

  

さぁ、この中に化けた瞬間のシークエンスがあります。ではその境界を色でお伝えします。

 

わくわくする香ばしさ、柔らかな舌触り、

軽い歯ごたえ、優しい口溶け、滑らかな喉越し…

  

お分かりですね。

そう、当たり前のように思っていた小麦食品特有の食感の変化は、実は「免疫力を下げる理由」に直結する ❝恐ろしい現象❞ なのです。

 

サクッとしていた直後、一気にドロッと溶けてしまう、このような一瞬で起こる極端な変化は、他の原料の食品には見られないと言って良いものです。

 

でも、その食感の変化がどう恐ろしいのでしょうか?

 

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皆さん、こんな経験はないでしょうか。

パンやピザやナンを食べた時、或いは麺類をよく噛んで食べた時など、奥歯と帆頬の内側の間(⇒親知らずを抜いた後の隙間など)にボテッとした塊が、ペトッと張り付いたように詰まってしまい、舌先では取り除くことが出来ずに、口をゆすいだり、指先で掻き出したりしてそれを取り除いたこと、ありませんか?

 

「…あ、そう言われてみれば、よくやってるわぁ、指で」「確かに米食った時には、それ無いな」

などという方、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

因みに僕は小麦を摂っていた当時、パンなど食べた後は ❝恒例行事❞ になっていました。

 

小麦粉は、グングン水分を吸収しながらネバネバでボッテリした塊へと体積を増しながら変化(=膨潤)する、という特徴があり、しかもそれは非常に粘性が高い強固に結束した物質となります。

 

パンを作ったことのある方はお解かりだと思いますが、パン生地はボールを逆さまにしても落ちませんよね。

 

例えば、パンを飲み物無しで食べたりした時、噛んでるうちに口の中がパサパサに乾き、飲み込む際に喉につっかえるようになるのは、この現象が起こっているからです。

 

小麦には「グリアジン」と「グルテニン」という2つの蛋白質があり、それらが水を含みますと「グルテン」という、ベタベタ&ネバネバ&ボッテリな物質に変化します。

 

「分かった!小麦を食べる時は、唾液を吸収する間を与えずにすぐ飲み込んじゃえば良いんだ!」

いやいや、ちょっと待ってください。

 

喉から先の消化器官の中は乾いた状態なのでしょうか?…勿論違いますよね。

 

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飲み込まれた小麦食品は、器官内の在る水分(⇒粘膜、消化液、同時に摂った物の水分など)をグングン吸収しながらボッテリと膨張し、ベトベト&ネバネバに粘性を増しながらダラ~ッとへばりつくようにして面積を広げながら食道を下り、その先で待ち構える胃へと進んでいきます。

 

ジャム瓶入りの蜂蜜をうっかり瓶の外側へこぼしてしまった時、ゆっくりと瓶の下へ向かって流れ降りていく蜂蜜の状態を思い出してみてください。

 

胃に到着しました。

「待ってましたぁ!私が相手になりましょう」と、胃液がこれを消化分解に掛かります。

いや~、これで一件落着!…いや、それは早合点かも知れない…思い出してください。

最初に任務にあたった消化液 = 唾液には歯が立たなかったことを…。

 

歯の奥に詰まった塊は小さくならずに、ずっとそこに居座ろうとするかの如く留まっていました。強かにも、唾液の消化力を敵に回す前に、唾液の水分を味方に付けてしまったのです。

 

残念ながら、胃でも同じことが起こってしまいました。

 

ボッテリした塊は消化器管の内壁を、ネバネバと覆うように胃壁にこびり付きながら、更にその先にある免疫機能の要、小腸へと向かって進んでいきます。

 

小腸は、胃で消化された栄養を取り入れ吸収する窓口であり、消化液で退治できなかった毒素を ❝一網打尽❞ にする「防御の砦」でもありますので、小腸の機能のポテンシャルは、健康状態のポテンシャルと直結します。小腸は我々のカラダに於いて ❝免疫力創りのメインステージ❞ なのです。

 

小腸の内壁の粘膜には絨毛突起(じゅうもうとっき)と呼ばれる無数(約400万とも言われている)のヒダがあり、吸収すべきもの(栄養、水 etc.)と退治すべきもの(ウィルス、菌、化学物質 etc.)を仕分け&処理しています。

以前えのすぱで開催した僕のセミナーで「腸管免疫」について講義させていただいたことがありましたが、そちらに出席された方は、何となく覚えていらっしゃるのではないでしょうか。…忘れちゃいましたか?…またいつかセミナーで…。

 

そしてここ小腸でも、恐ろしいことが起こります。

 

ボッテリした塊(グルテン)がベッタリと小腸の内壁こびり付き

「免疫を高めるべく働く小腸の機能」を封じてしまいました。

 

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ベトベトの粘性は、大腸へも侵入してゆくこととなり、大腸壁にもベッタリへばりつき、腸内細菌環境を悪化させます。こうなりますと、言うまでもなく

 

「便秘になり易い」=「 毒物が多く常駐している体質」

 

になってしまいます。⇒肥満の原因になることも、言わずもがな、です。

 

体内に入った食物は蠕動運動(ぜんどううんどう)という、先へ先へと進んで行かせるための波打つような消化器官の自発的運動をしますが、小麦はそれを妨害します。その結果消化器全てが疲弊し慢性的に疲労を感じ易くなるのです。

 

よく「毎日パン沢山食べてるけど、お通じバッチリだから、私はグルテン大丈夫みたい!」という方がいらっしゃいますが、そうした方には次のことのチェックをおススメします。

・便が便器の水に沈む ・便が細い or コロコロしている ・流しても便器にこびり付きが残ることがある

何れか思い当たることがあれば、小麦食品を減らす習慣をつけると宜しいかと思います。&お通じが悪い方は尚のこと…

 

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さて、ここまで小麦食品が、飲み込まれた後どうなってゆくのかをご一緒に見てまいりました。

如何でしたでしょうか、小麦の化けの皮、躊躇なくご一緒に剥がせましたでしょうか。

 

 

❝自粛明け❞ を目前にした今だからこそ、小麦を減らす…或いはキッパリと手を切るというのは、これからの人生に対して超前向きな行動で、大変宜しいのではないかと…僕は思っております。

 

ま、それは、食の嗜好性でもあって、僕がとやかく言うことではありませんね、…その代わりと言っては何なんですが、遅ればせながらの新年度の始動に際し、僭越ながら1つご忠告を…。

 

「爽やかさ」「素直さ」「扱いやすさ」を印象付けて入社して来たものの、入社後間も無く「文句たらたら言い訳三昧」「動かない」「足を引っ張る」という凄まじい変貌ぶりを見せてくれる、

 

小麦ちゃん」にご注意ください。




さて今回はこの辺にしまして、失礼致します。

 

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

 

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。

 

 

 

モノとの関わり①

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

前回の番外編を読んでくださった方、いつものテイストとは違うにも関わらず、お付き合いいただきまして有難うございました。その前回から新しいカテゴリーとして『時代と人間』というのを設けまして、この括りの時には、近代、特に21世紀に入ってからの20年間が、人間の心身にとってどんな時代であったのか、を考えるためのヒントを書いていこうと思っています。

 

近代が人類における真の幸福=健康にとって良くない時代であった…そして、そこと決別すべく準備の時こそが現在なのかなぁと、僕はそんな風に感じながら今を過ごしています。

 

このシリーズが、これを読まれる皆さんにとって、来たる未来へ身を委ねるに際しての不安を取り払い元気を手にするための ❝気付け薬❞ の代わりにでもなりましたら嬉しいです。

 

今回はその第二弾として、この20年の「モノとの関わり」について書こうと思います。

 

…ですが、すみません、またまた余談からスタートさせていただきます。

 

 

つい3週間くらい前までは枯れ枝のようだったのですが、このところの暖かさで一気に沢山の枝の芽が出てきて、つい1週間程前に1つ、昨日また1つ⇒計2つ葉を広げまして…何とも嬉しい感じなのです。

 

これはウンベラータという観葉植物で、育ちますと人の背丈を越えるほどの高さになり、葉の大きさは人の顔の2倍くらいにもなるようなのですが、うちの居間にはこれとは別に胸丈くらいのものが元々ありまして…で、その折れた枝だったのが彼です。

 

実は昨年の秋までは、小兵ながらも沢山の枝と葉を茂らせて元気いっぱいだったのですが、冬の暖かい日に日光浴させようと外に出したままうっかり夜に部屋に戻すのを怠ってしまい、全ての枝が落ちてしまったのでした。ホント、可愛そうなことをしてしまいました。

 

その後、再起を願い土を入れ替えてコツコツ水をやってはいたものの、ずっとこれといった変化を見せなかったので「もうだめなのかな…」とも、正直思った時もあったのです…が!復活の狼煙をあげるかの如くに初々しい葉が開いたのです!(写真だと大きく見えますが、大きい方の葉で実寸長辺3cmくらいです)っいや~もう、感動!なわけです。しかも、この葉の他にも…

 

…おっと!このままだとウンベラータの話だけで終わってしまいますので、そろそろ本題に入りましょう。

 

尚、このコラムは、僕自身のあくまでも感覚的な随筆となります。お読みくださる方にとって、ほんの僅かでも共感できる部分がありましたらば幸いです。

 

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充分に発展した、或いはそう見える環境に於いては、作為 or 無作為に関わらず、何か新しいことが起こる時には、同時にこれまで続いてきたことの何某かに変化が加わるというのが常であり、これまでの環境をそのまま温存しながらそこに新しいものが加わるだけ、となるケースはほぼ皆無です。

 

何かが生じれば、必ず「それとは引き換えに」という形で、これまでの ❝何か❞ が失われるというのが、恐らくは現代における自然の摂理です。

 

今と比べてまだまだ発展する余地があった頃は、「あれが仲間入り!」「これも仲間入り!」とドンドン世の中が大きくなっていくようなイメージで様変わりしていきます。そう、昭和ってそういう時代だったなぁと記憶しています。

 

PC環境になぞらえますと、あの当時は自動的に「別名で保存する」となる環境設定だったとでも言いましょうか…フォルダを覗くと今閉じたファイルが過去のファイルの横に並んでいる状態。

 

ですが、新世紀が明け…特にここ15年くらいは、自動的に「上書き保存」になる環境設定です。PCがもうこれ以上重くならないようにする…言うなればメモリ許容量の飽和状態が起こすハングアップを危惧した設定です。

 

つまり、新しい○○が作られた時 or 新しい○○が起きた時、「○○が△△に取って代わる!」となりますので、〇〇の誕生はそもそも△△をこの世から無くす前提であった、という法則性みたいなものがそこに存在しているわけです。

 

例えば、生活の中の身近なシーンで振り返りますと、ガラケーからスマホに変わる時もそうでした。前述の○○はスマホで、△△がガラケーです。

 

会社の方針で両方持たされているなどの方は別にして、ガラケーを未だに使い続けながらスマホも使っている二刀流な人って、まず見かけませんね。

 

かつて、あれだけ持てはやされたにも関わらず、スマホが登場するや否や「ケータイ」は「ガラケー」に成り下がり、「わたくしの存在は無かったことに…」と言わされたかのように、❝役立たず❞ な道具へと瞬く間に貶められ、自らその身を引くことを余儀なくされてしまいました。

 

そう、ガラケーが自ら古くなっていったのではなく、スマホに力尽くで古くさせられてしまったのですね。あれはあれで、まだまだ可能性があったように思います。

 

こうした背景の裏に、実は欧米諸国からの「グローバル化」へ向けた政治的な圧力というものの存在があり、単にテクノロジーの進化による世代交代ということだけでは語れない部分が大きいのですが、ここら辺の話はかなり ❝ディープ❞ になりますので今回この場では触れずに、またいつか…もし機会があれば、お話ししたいと思います。

 

思い起こせば、自分のケータイがどれだけ小さいかを自慢していたような人々が、急に「このスマホ、大画面でしょ!」とか言い出すのですから、我々人間の脳は柔軟といいますか、良くも悪…いや、良しとしておきましょう!

 

…と、ここまでこんなことを言っていながら、実は僕はガラケータブレットの変則二刀流で、スマホは持っていません。かつてスマホも一旦は使ってみたのですが、直ぐガラケーに戻してしまいました。

 

その訳につきましては…まぁ、電磁波のことは確かに大きい理由ではありますが、それ以外の部分では特に、拘り!とか、アンチテクノロジー!とか、「敢えてガラケーですから、俺っ!」みたいなマッチョなポリシーが背景にあるような、そんな立派なものではありません。

ただ単に、「しっくりくる」という、非常に曖昧な感覚を道具としての利便性よりも優先している、ということが未だガラケーとのお付き合いを継続させていただいている最たる理由です。

 

新しい通信システム=5Gの危険性について色々と語られていますが、僕からも「とても危険である」とこの場を借りてハッキリとお伝えしておきます。

 

よく周りから「困る時ない?」とか言われることがありますが、例えば検索に関して言えば、今すぐ知るべきことというのは本来そう多くないような気がしていますし、僕はその時間を「考える」という時間に割きたい。また、ゲームは元々全くやりませんし、ラインとかで知り合いと繋がる際に消費するであろうエネルギーやエモーションは、初めて出会う人や久しぶりに再会する人とのシーンに取っておきたいのです。

…そもそも、「困った時は、困れば良い」と、そう思っています。

 

スマホ依存、特にSNS(LINEも含むと定義して)によって引き起こされるドーパミンの問題などについては、知っている方も多いかと思いますが、これにつきましても、また別の機会がありましたら…ということで、今回は触れません。

 

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何れにしましても、モノが「古くなった」というのは「使用者の要望に応えられない状態になった」ということです。

 

ゆっくりと発展する環境下でのそれは、何某かが原因で起きた「劣化」である場合が多いのだと思いますが、活発且つスピーディーに発展する環境下では、そこに「使用者の要望」なるものは介在しません。(これは、本来ちょっと異常な世界です)

 

やっと使い慣れて愛着を感じ始めた矢先に「はい、もうそれは使用終了で、これに替えてください」と、モノを売る人が使う人の手に握られているモノを一方的に奪い、新しい規格の商品と入れ替えてしまうという…。

 

高圧的な物売りとでも言いましょうか、「サービス」という言葉はあるものの、ここ数年のモノの売り方は「押し売り」の方法論である、と言っても良いかと思います。

 

昨今「押し売り」という言葉があまり聞かれなくなりましたが、その大きな理由は世の中の物売りが全てその手法になってしまったからです。押し売りとは「買う意思のない者に無理矢理商品を買わせる」行為を意味します。実際には強制的行為を押し通すわけではなく、乗せてそそのかして、その場で買わなきゃいけないような気にさせる商法です。

 

此方の気分などは無視でバンバン投函されるニュースレターやメルマガ然り、「今から2時間46分以内のご注文でポイント2倍!」などの記述然り、「無料お試し期間を過ぎますとそのまま自動的に…」という課金システム然り、「ちょっと待ったぁ!今回は更にもう1袋お付けして…」「放送終了後30分以内にご注文の方に限り…」といった煽り商法然り、これ全て元々は「押し売り」稼業の方々が用いていた方法論や常套句の応用です。

 

近年、「サービス」は「買い手側が売り手側にするもの」=アベコベになってしまった、という感覚をお持ちの方、少なくないと思います。それは正解であると、僕はそう思います。

 

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21世紀の世になり「デジタル化」という名の大鉈が振り下ろされて以来、生産者側に変化のイニシアチブを完全に握られてしまいました。

 

モノが産まれる際の動機が「何が必要なのか」から「何が売れるのか」にシフトしていったのです。特に文明国では、消費者が同時に生産者でもありますから、それが今の ❝正義❞ なのだと、多くの人が受け入れてしまうまでにそう時間は掛かりませんでした。

 

そうなりますと、モノを買う決心をする際の心の合理化も「よく売れてるから=多くの人が買っているモノだから欲しくなるのは当然なのだ」というような、❝他人本意❞ になってゆきます。

 

買わなくても良い筈の(その人が求めるライフスタイルにとって必要ではない)商品が家に沢山あるような、そんな人が爆発的に増えたのも、今という時代の特徴でしょう。

 

その結果、好きか嫌いかはさて置き、現行のモノに取って代わる新しい道具が出来れば、今持っているモノをすぐさま手放すことに何ら躊躇しないという、そんな ❝思慮浅い❞ 感性が世の中をリードしていくこととなりました。

 

「自分のニーズや嗜好を持つことは後々自分を苦しめるリスクです。より受動的に生きてゆきましょう!」という売り手側からのアプローチに侵された末に「独自の価値観や判断基準を持たないで生きていくべし!」と決断した人、ここ20年はそんな人たちだけを可愛がるような世の中だったなぁと、僕はそんな印象を持たずにいられません。

 

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今日、我々人間は「モノの選択」は上手ですが、「モノの創造」は下手になってしまいました。

 

通販サイトから気に入ったものをカゴに入れても、アプリから便利なツールをダウンロードしても、全ては「売る側の庭の外へは出られない自由」です。

 

この20年間は、そんな仕組みを利用することが器用で、そんな仕組みを作ることが巧みな「楽をして生きる人々」が持てはやされ、何故だか皆そこを目指す努力を強いられる…そういう時代だったように思います。

 

ただ、どうでしょう…「それはもうやめにしましょう、これ以上続けると人はドンドン幸せから遠ざかっていきます」という声が、何かこう…空の上の方から?聞こえて来たように思えるのです。

 

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さて、次回は免疫の話、小麦について書いていこうと思います。

それでは失礼します。

 

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

 

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。

 

 

番外編 ~「今」という時 ~

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。

今回は番外編です。免疫の話は一旦置いておいて「今」という時について、ちょっとだけ考えてしまおうかな、と思います。

 

…で、それに先立ち…すみません、また直接関係ないところからスタートさせていただきます。

 

 

皆さん、これ、何の植物かお判りでしょうか? 

パッと見で分かってしまった人⇒かなりの健康志向か、相当なハイキング好きか、或いは素晴らしく自然に恵まれた環境で過ごした経験をお持ちか…そんな方なのかなぁと、思ったりします。

 

これ、クレソンです。

暫く前、自宅からほど近いフジスーパーで買ってきまして、食べる際に切り落としたたった一本の根の部分から育ったものです。庭の軒下部分に水を絶やさないようにして置いてあります。

 

クレソンに含まれる苦み成分である「シニグリン」には優れた殺菌力があり、例えば焼いた肉などの雑菌や毒素が多く含まれる食品を食べる際にクレソンを一緒に摂りますと、カラダが受けるダメージを大幅に軽減してくれるようです。

 

往々にして野菜の苦みを欲っする時というのは、カラダが発した「要デトックス」のアピールを受信した時でもあります。クレソンを食べるのと同時に、ここ最近毒性の高い食物(=主に肉、特に牛肉!)を多く摂取していないかのチェックと、その「引き算」を実行する機会にしてみてください。

 

シニグリン含有食品は、クレソンの他にワサビ、大根などがあります。それらは共通して「アブラナ科」に属する植物なのですが、この科目は抜群に健康を支援してくれまして…いつかここら辺の話もお届けすることとなると思います。

 

初めは ❝なんちゃって❞ な感覚でコップに水を入れて挿していたのですが、様子を見ているうちに「生きようと思ってますから宜しく!」みたいなメッセージを放つようになったので、小さい鉢に移して土が乾かない工夫をして…で、今年3月に面積が広い大きな鉢を買ってきて…で、こうなったというわけです。

 

少し前までは「いつか生い茂る程になったら少しずつ取って食べよう」という気持ちで楽しみにしていましたが、育つうちにだんだん可愛くなってしまっていて、今や日々ただ眺めているだけでなんとなく嬉しいような、そんな感覚でいます。

 

…おっと!このままだとクレソンの話だけで終わってしまいますので、そろそろ「今」についての考察を始めたい思います。(僭越ながら僕の感覚的なところで述べさせていただきます)

 

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さて、現在我々が遭遇している ❝事変❞ も踏まえ、「今」とは一体どんな ❝時❞ なのでしょう…。

 

ボクシングに例えて言いますと(⇒何故だ!)

どうやら、「もうこの試合は続行できません」と、遂に白いタオルがリングに投げ込まれたんだなぁ、と感じています。

 

そう、およそ200年間にも及ぶ長いファイトがセコンドによる試合放棄によって終了を迎えてしまう&ボクサーのダメージは相当なもの…(ボクシングが全く分からない方、すみません)

 

この白いタオルの役目を担ったもの、それはもしかすると今回のパンデミックであり、タオルを投げたセコンドはウィルスなのかも知れません。

 

では、ダメージを受けていた側のボクサー=「敗者」は一体誰なのでしょう…。それは

 

「(今までの)世の中の仕組みと価値観」

 

です。(再度お断りしておきます。これはあくまでも僕の感覚的なところです)

 

さて、これから一体どんな時代が訪れるのでしょう…。

 

きっとこれまで我々を取り巻いてきた世界というのは、例えば大きな洗面器のようなもので(ボクシングが分からない方、もうご安心ください)、今まで発展してきた文化や文明というのは、それに少しずつ注がれ続ける水のようなものです。そしてその水面で浸かったり泳いだりしているのが我々人間です。

 

洗面器は上に行くにつれ広がりますから、水が注がれるほど浸かれる人の数も多くなっていきます。人が増えますと次第に水が温まっていきます。

 

孤独感もなく水も温かいので、ただ浸かっているぶんには楽になります。が、泳ぐことは段々難しくなっていきます。

 

初めは空っぽだった洗面器も、水が徐々に注がれていき、やがて満杯になった後はそれまでに注がれていた水が洗面器の外にこぼれ始めるのです。

 

結果として、洗面器は約200年でいっぱいになるキャパシティでした。

 

この時の「満杯になった瞬間の洗面器」は、正に「今」という飽和状態にある時代そのものであり、「注がれた水がとうとうこぼれ始める」のが「これから」という、すぐ目前に訪れようとしている近々の未来なのだと思います。

 

飽和状態が来る場合も在り得るのだ!ということに気付いた近代の人々は、(無意識のうちに?)新たに注がれる水の分量を見ながら古い水を捨て、自分たちが洗面器の外に流されてしまわぬよう努めてきました。

 

でも、とうとう限界=臨界点が訪れてしまった…。

 

さて、我々が初めて体験する溢れ出る水、…その水面に居る人間たちはどうなるのでしょうか?

洗面器の中に留まろうと、水中に潜ればすぐに溺れてしまう。溢れる水に逆らって泳ぎ続ければ、やがて力尽きてしまいます。

一旦溢れ始めた水の勢いは想像を越えるほどのものです。

 

流されても朽ちる、逆らっても朽ちる。…ということは、我々に未来は無いのでしょうか?

 

いや、ちょっと待ってください。流されたら朽ちるかどうかの検証は未だしていませんでしたね。

 

結論から言ってしまうと、

生き続けるための正しい選択、それは恐らく「溢れ出る水と一緒に流れる」ことです。

 

生まれた時から過ごしてきた環境が洗面器の中だったので「洗面器が全て!」な視野になってしまっているのは仕方ありません。ですが、洗面器の外にどんな環境があるかは未だ誰も見たことが無いのです。

 

洗面器から溢れ出た水はどんなところへ流れていくのでしょうか?

流れ着く先は今までよりも過酷で苦しいところなのでしょうか?

流れ着くまでにどれくらいの時間が掛かるのでしょうか?

流れ着く途中に危険はないのでしょうか?

 

…それは分かりません。ただこう考えると何かがおぼろげに見えてきます。

 

全ての水が流れ着く先は、より大きな水の集合体です。

 

…これは自然の摂理です。

 

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さて今回=番外編はこの辺にしまして…

次回は免疫の話、小麦について書いていこうと思います。

 

…それにしても、思えば不思議なものです。

あのクレソンを食べた時の味も喜びも忘れてしまいましたが、捨てるつもりだった根の部分が今の僕に付き添いながら、これからの楽しみを提供し続けているのですから。

 

それでは失礼します。

 

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。

*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。