モノとの関わり①
こんにちは。江の島整体「癒芽身」の施術長 香野です。
前回の番外編を読んでくださった方、いつものテイストとは違うにも関わらず、お付き合いいただきまして有難うございました。その前回から新しいカテゴリーとして『時代と人間』というのを設けまして、この括りの時には、近代、特に21世紀に入ってからの20年間が、人間の心身にとってどんな時代であったのか、を考えるためのヒントを書いていこうと思っています。
近代が人類における真の幸福=健康にとって良くない時代であった…そして、そこと決別すべく準備の時こそが現在なのかなぁと、僕はそんな風に感じながら今を過ごしています。
このシリーズが、これを読まれる皆さんにとって、来たる未来へ身を委ねるに際しての不安を取り払い元気を手にするための ❝気付け薬❞ の代わりにでもなりましたら嬉しいです。
今回はその第二弾として、この20年の「モノとの関わり」について書こうと思います。
…ですが、すみません、またまた余談からスタートさせていただきます。
つい3週間くらい前までは枯れ枝のようだったのですが、このところの暖かさで一気に沢山の枝の芽が出てきて、つい1週間程前に1つ、昨日また1つ⇒計2つ葉を広げまして…何とも嬉しい感じなのです。
これはウンベラータという観葉植物で、育ちますと人の背丈を越えるほどの高さになり、葉の大きさは人の顔の2倍くらいにもなるようなのですが、うちの居間にはこれとは別に胸丈くらいのものが元々ありまして…で、その折れた枝だったのが彼です。
実は昨年の秋までは、小兵ながらも沢山の枝と葉を茂らせて元気いっぱいだったのですが、冬の暖かい日に日光浴させようと外に出したままうっかり夜に部屋に戻すのを怠ってしまい、全ての枝が落ちてしまったのでした。ホント、可愛そうなことをしてしまいました。
その後、再起を願い土を入れ替えてコツコツ水をやってはいたものの、ずっとこれといった変化を見せなかったので「もうだめなのかな…」とも、正直思った時もあったのです…が!復活の狼煙をあげるかの如くに初々しい葉が開いたのです!(写真だと大きく見えますが、大きい方の葉で実寸長辺3cmくらいです)っいや~もう、感動!なわけです。しかも、この葉の他にも…
…おっと!このままだとウンベラータの話だけで終わってしまいますので、そろそろ本題に入りましょう。
尚、このコラムは、僕自身のあくまでも感覚的な随筆となります。お読みくださる方にとって、ほんの僅かでも共感できる部分がありましたらば幸いです。
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充分に発展した、或いはそう見える環境に於いては、作為 or 無作為に関わらず、何か新しいことが起こる時には、同時にこれまで続いてきたことの何某かに変化が加わるというのが常であり、これまでの環境をそのまま温存しながらそこに新しいものが加わるだけ、となるケースはほぼ皆無です。
何かが生じれば、必ず「それとは引き換えに」という形で、これまでの ❝何か❞ が失われるというのが、恐らくは現代における自然の摂理です。
今と比べてまだまだ発展する余地があった頃は、「あれが仲間入り!」「これも仲間入り!」とドンドン世の中が大きくなっていくようなイメージで様変わりしていきます。そう、昭和ってそういう時代だったなぁと記憶しています。
PC環境になぞらえますと、あの当時は自動的に「別名で保存する」となる環境設定だったとでも言いましょうか…フォルダを覗くと今閉じたファイルが過去のファイルの横に並んでいる状態。
ですが、新世紀が明け…特にここ15年くらいは、自動的に「上書き保存」になる環境設定です。PCがもうこれ以上重くならないようにする…言うなればメモリ許容量の飽和状態が起こすハングアップを危惧した設定です。
つまり、新しい○○が作られた時 or 新しい○○が起きた時、「○○が△△に取って代わる!」となりますので、〇〇の誕生はそもそも△△をこの世から無くす前提であった、という法則性みたいなものがそこに存在しているわけです。
例えば、生活の中の身近なシーンで振り返りますと、ガラケーからスマホに変わる時もそうでした。前述の○○はスマホで、△△がガラケーです。
会社の方針で両方持たされているなどの方は別にして、ガラケーを未だに使い続けながらスマホも使っている二刀流な人って、まず見かけませんね。
かつて、あれだけ持てはやされたにも関わらず、スマホが登場するや否や「ケータイ」は「ガラケー」に成り下がり、「わたくしの存在は無かったことに…」と言わされたかのように、❝役立たず❞ な道具へと瞬く間に貶められ、自らその身を引くことを余儀なくされてしまいました。
そう、ガラケーが自ら古くなっていったのではなく、スマホに力尽くで古くさせられてしまったのですね。あれはあれで、まだまだ可能性があったように思います。
こうした背景の裏に、実は欧米諸国からの「グローバル化」へ向けた政治的な圧力というものの存在があり、単にテクノロジーの進化による世代交代ということだけでは語れない部分が大きいのですが、ここら辺の話はかなり ❝ディープ❞ になりますので今回この場では触れずに、またいつか…もし機会があれば、お話ししたいと思います。
思い起こせば、自分のケータイがどれだけ小さいかを自慢していたような人々が、急に「このスマホ、大画面でしょ!」とか言い出すのですから、我々人間の脳は柔軟といいますか、良くも悪…いや、良しとしておきましょう!
…と、ここまでこんなことを言っていながら、実は僕はガラケーとタブレットの変則二刀流で、スマホは持っていません。かつてスマホも一旦は使ってみたのですが、直ぐガラケーに戻してしまいました。
その訳につきましては…まぁ、電磁波のことは確かに大きい理由ではありますが、それ以外の部分では特に、拘り!とか、アンチテクノロジー!とか、「敢えてガラケーですから、俺っ!」みたいなマッチョなポリシーが背景にあるような、そんな立派なものではありません。
ただ単に、「しっくりくる」という、非常に曖昧な感覚を道具としての利便性よりも優先している、ということが未だガラケーとのお付き合いを継続させていただいている最たる理由です。
新しい通信システム=5Gの危険性について色々と語られていますが、僕からも「とても危険である」とこの場を借りてハッキリとお伝えしておきます。
よく周りから「困る時ない?」とか言われることがありますが、例えば検索に関して言えば、今すぐ知るべきことというのは本来そう多くないような気がしていますし、僕はその時間を「考える」という時間に割きたい。また、ゲームは元々全くやりませんし、ラインとかで知り合いと繋がる際に消費するであろうエネルギーやエモーションは、初めて出会う人や久しぶりに再会する人とのシーンに取っておきたいのです。
…そもそも、「困った時は、困れば良い」と、そう思っています。
スマホ依存、特にSNS(LINEも含むと定義して)によって引き起こされるドーパミンの問題などについては、知っている方も多いかと思いますが、これにつきましても、また別の機会がありましたら…ということで、今回は触れません。
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何れにしましても、モノが「古くなった」というのは「使用者の要望に応えられない状態になった」ということです。
ゆっくりと発展する環境下でのそれは、何某かが原因で起きた「劣化」である場合が多いのだと思いますが、活発且つスピーディーに発展する環境下では、そこに「使用者の要望」なるものは介在しません。(これは、本来ちょっと異常な世界です)
やっと使い慣れて愛着を感じ始めた矢先に「はい、もうそれは使用終了で、これに替えてください」と、モノを売る人が使う人の手に握られているモノを一方的に奪い、新しい規格の商品と入れ替えてしまうという…。
高圧的な物売りとでも言いましょうか、「サービス」という言葉はあるものの、ここ数年のモノの売り方は「押し売り」の方法論である、と言っても良いかと思います。
昨今「押し売り」という言葉があまり聞かれなくなりましたが、その大きな理由は世の中の物売りが全てその手法になってしまったからです。押し売りとは「買う意思のない者に無理矢理商品を買わせる」行為を意味します。実際には強制的行為を押し通すわけではなく、乗せてそそのかして、その場で買わなきゃいけないような気にさせる商法です。
此方の気分などは無視でバンバン投函されるニュースレターやメルマガ然り、「今から2時間46分以内のご注文でポイント2倍!」などの記述然り、「無料お試し期間を過ぎますとそのまま自動的に…」という課金システム然り、「ちょっと待ったぁ!今回は更にもう1袋お付けして…」「放送終了後30分以内にご注文の方に限り…」といった煽り商法然り、これ全て元々は「押し売り」稼業の方々が用いていた方法論や常套句の応用です。
近年、「サービス」は「買い手側が売り手側にするもの」=アベコベになってしまった、という感覚をお持ちの方、少なくないと思います。それは正解であると、僕はそう思います。
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21世紀の世になり「デジタル化」という名の大鉈が振り下ろされて以来、生産者側に変化のイニシアチブを完全に握られてしまいました。
モノが産まれる際の動機が「何が必要なのか」から「何が売れるのか」にシフトしていったのです。特に文明国では、消費者が同時に生産者でもありますから、それが今の ❝正義❞ なのだと、多くの人が受け入れてしまうまでにそう時間は掛かりませんでした。
そうなりますと、モノを買う決心をする際の心の合理化も「よく売れてるから=多くの人が買っているモノだから欲しくなるのは当然なのだ」というような、❝他人本意❞ になってゆきます。
買わなくても良い筈の(その人が求めるライフスタイルにとって必要ではない)商品が家に沢山あるような、そんな人が爆発的に増えたのも、今という時代の特徴でしょう。
その結果、好きか嫌いかはさて置き、現行のモノに取って代わる新しい道具が出来れば、今持っているモノをすぐさま手放すことに何ら躊躇しないという、そんな ❝思慮浅い❞ 感性が世の中をリードしていくこととなりました。
「自分のニーズや嗜好を持つことは後々自分を苦しめるリスクです。より受動的に生きてゆきましょう!」という売り手側からのアプローチに侵された末に「独自の価値観や判断基準を持たないで生きていくべし!」と決断した人、ここ20年はそんな人たちだけを可愛がるような世の中だったなぁと、僕はそんな印象を持たずにいられません。
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今日、我々人間は「モノの選択」は上手ですが、「モノの創造」は下手になってしまいました。
通販サイトから気に入ったものをカゴに入れても、アプリから便利なツールをダウンロードしても、全ては「売る側の庭の外へは出られない自由」です。
この20年間は、そんな仕組みを利用することが器用で、そんな仕組みを作ることが巧みな「楽をして生きる人々」が持てはやされ、何故だか皆そこを目指す努力を強いられる…そういう時代だったように思います。
ただ、どうでしょう…「それはもうやめにしましょう、これ以上続けると人はドンドン幸せから遠ざかっていきます」という声が、何かこう…空の上の方から?聞こえて来たように思えるのです。
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さて、次回は免疫の話、小麦について書いていこうと思います。
それでは失礼します。
皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。