整体に整体師は要らない!?

整体師範 香野勇雄 のブログです。

「言霊」上手に使えていますか?③

以前、

私がある救急医療のNPOと関わっていた時、

その代表の方に、食事の席で

こんな言葉を頂いたことがありました。

その方は、「まるでキリストのような」と

形容できるほどの人格者で、とても心の優しい人でした。

 

「ここのお料理ホント美味しいですねぇ。

とても楽しい時間が過ごせて、今日は感激です。

…ところで香野さん、

今お箸を運んでいるその口は、

本当は何のために在るのか、解りますか?

やっぱり美味しい物を食べるため? 

それとも相手に自分の主張を通すため?

香野さん、そこについているその口はね、

”人を励ますため” に在るのですよ」

 

ポカンと口を開けたままになってしまった私に

彼は話を続けてくれました。

 

「励まされた人は、それだけで幸せな気持ちになります。

そうでなかった人は、それだけで寂しい気持ちになります。

人は、励まし合うことでお互いを幸せにしてゆく、

そういう生き物なのです」

 

衝撃でした。

それまで、ただ勢いで生きてきた若造にとっては痛烈に。

 

「洗礼」という儀式は、

かくも予想しない時に訪れるものなのですね。

 

         ∞

 

恐らく、その時の彼よりも年上になった今、

あの言葉の通りに生きていた彼に

少しでも、ほんの少しでも近付いてみたいと

そう思いながら、今、私は生きているのかも知れないと

そう感じられることが、

何とも有難かったりするのです。

 

〈次回に続く〉

「言霊」上手に使えていますか?②

言葉は人の行動や活動を司るものです。

人の健康も、人の幸福も、

言葉による支配を受けている者たちです。

 

言葉には、

「人を健康にするチカラ」

「人を幸福にするチカラ」

があるのです。

 

例えば、貴方の大切な人、信頼を寄せる人が

「大丈夫、心配することは無いですよ」

と、優しい言葉を掛けてくれたら

それだけで体調が良くなったり、

幸せを感じたりするものです。

 

こんなことだってあります。

お医者さんから

「あなたは数値的に問題なし!健康です!」

と言われたら、それだけで

心の曇りが晴れ、幸せな気持ちになりますし、

「俺は健康なんだよ」と

家族や友人に言い切ったりもしてしまう…。

 

そう、信頼する発言者からの言葉が

自分を「健康の部類」に納めてしまったのです。

 

仮にその時、本当は健康でなかったとしても、

これを境に、健康な状態へとグイグイ導かれることは

十分ありえる&往々にしてあることなのです。

 

〈次回に続く〉 

「言霊」上手に使えていますか?

「言霊」

というと、何かこう…特別で

この世のものでは無い、

得体の知れない力の作用を示すようにも感じますが、

それは近代になってからの解釈であると

私はそう思っています。

 

「霊」という意味合い自体、

身近に在るべくして在る=ごく当たり前の存在から、

「科学的根拠」や「エビデンス」などという

疑い深い人を安心させるための ”近代兵器” によって、

貧素な秤の上に乗せ、少し離れたところから

冷ややかに眺めるものへと

変えられてしまったのでしょう。

 

「信じる方ですか!? 信じない方ですか!?」

「いや、僕はそれって在る!と思うんですよぉおおっ!!」

 

…どうだって良いと思います、そんなことは。

 

つまり、

「言霊」とは、言葉に帯びる

人を動かすために作用するチカラ、エネルギーのことだと

私は認識しています。

 

〈次回に続く〉        

人の助け、受け取れていますか?

人が人を助ける時、

人が人に助けられる時、

 

助ける者は、助けられる者より

ほんの少しでも、

ほんの僅かにでも、強くあるべきなのだと

 

かつての私は…この夏以前の私は

そう思っていたのかも知れません。

 

でもそれは…その強弱の関係性は

どうだって良いものであると、

今の私はそう思っているのです。

 

そこに必要なのは、

 

助けようとする者の「優しさ」と

助けられようとする者の「大らかさ」

 

ただそれだけなのだと

今の私は、

そう思っているのです。

自然を感じたいですか?

若い頃、「自然を感じる」という意識を味方に付けて、

貪るように海に入っていました。

 

でも、それは嘘でした。

 

本当のところは

「自然を利用して自分を感じる」だったのだ、

ということを、歳を重ねた今

素直に認めることになっているのです。

 

 

さて、

その場が海であれ、山であれ、

 

もし、自然を感じようとするのなら

「良いコンディション」など吟味することなく

如何なる時の自然にも

ただ、ただ、身を委ねる。

 

その時、本当に「自然を感じる」ことになるのでしょう。

 

さて、あなたは「自然を感じたい」のか、

それとも「自然を利用して自分を感じたい」のか、

一度改めて整理してみるのも良いかも知れません。

まだ座ってるつもりですか?①

こんにちは。整体師の香野です。

 

夏からここ最近まで、組織の立ち上げ作業等で暫く忙しい状態が続いたため、久しぶりの執筆となってしまいました。

ご無沙汰してしおります、皆様は如何お過ごしでしょうか?

 

それにしても暑い夏だったなぁ〜…と、思っていたら一気に肌寒い日々…もう色んな意味で何が何だかわからない2020年なわけです。

 

この写真は先日の強風&長雨で庭から屋内に一旦避難させた植物たちです。(&手前のペダルは愛車のBMX氏)

ホッと和みながらおしゃべりを楽しんでいるご様子でした。

 



さて、今回は前回の続編をお届けしょうと思ったのですが、時間も空いてしまったことですし&昨今「アフターコロナ」とか訳の分からない言葉が横行…と言いますか、全てそれで片付けようとする無責任な風潮が蔓延していることなども、このところ結構気になっており…の新しいシリーズ「老い!負い!追い!」と題したその第一弾を今回お届けします。

 

…ですので「日本人の特殊な能力」の第3段(完結編)は暫しお待ちください。❝良きところ❞ でのアップ予定です。

 

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時間の経過に実感が持てないこの2020年、既にもう10月も半ばになろうとしております。

 

未だちょっと気が早いかも知れませんが、2020年を振り返りますと、外出自粛の指導行使により、多くの人にとって「身体の弱化を強いられた年」であったと、僕はそう痛感するわけです。

 

外出自粛の指導…これは整体師である僕から見ますと「国民の皆さん、感染リスクと引き換えに根本的な健康を手放しなさい!」の指導がお国から繰り返し発せられたという、そんな今年は何とも奇妙な年でもあるわけでして…。



春以降、老若男女問わず、僕を訪れるお客さんの今抱えている不具合(身&心の何れに関しても)が、実に極めて高い頻度で「長時間に及ぶ座位の継続」、即ち椅子に長い間座りっぱなしでいることがその原因である、という状況になっています。これは僕だけでなく世界中の同業者(補完代替医療従事者)も直面していることだと思います。

 

このことは健康維持という視点からして、先々重大な問題になってゆくことと思っています。

 

ですが、このコラムの読者である皆さんには、是非とも上手にそのリスクを回避していただきたいので、何回かに渡って「カラダに及ぼす座ることの弊害」について書いていきたいと思います。

 

&マスク着用時間が長いことに関しましても、これまた同様な現況なのですが、これにつきましてもまた後日書きたいと思っています。

 

一般に「座る」という行為を「=休む」と捉えがちですが、解剖学的に見れば「全身をクランク上に屈曲した体勢の維持」であって、それはあくまで身体の可動を抑制した「人間特有の静的な運動」であると僕は捉えています。

 

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お客さんの口からも「ずっと座っているのが悪いんだと思うんですけど、〇〇の調子が…」という自己分析の発言がなされることも少なくはないこのところの施術現場なのですが、改めて、

 

椅子に座っている時間が長いと、何にどう良くないのでしょうか? 

 

では、今日はその第一弾として… が、その前に少し寄り道にお付き合いください。

 

皆さんは座っている時の ❝お行儀の悪い行為❞ といいますと先ず何を思い出されますでしょうか?

そう、

 

「貧乏ゆすり」

 

ですよね。(「俺は ❝ 楊枝でシーシー ❞ がまず思い浮かぶけどなぁ」…ま、ま、どうかここは話を合わせて頂きまして…(汗))



「貧乏ゆすりは、血行不良を改善する為の反射運動である、

だから本当はカラダに良いのだ!」

 

とは昨今巷でよく言われているところで、僕もその「カラダに良いこと」については特に異論は無く、確かに座って暫くの時間が経過した時に「貧乏ゆすり」が起こる頻度は高いので、その時特に大腿部から下は血行不良に陥っていると考察できると思います。

 

勿論、長時間座り続けることが全身の血行に良くないのは言うまでもなくで「エコノミー症候群」しかり、です。

 

皆さん、今一度「貧乏ゆすり」の動作を思い出してください…そう、せっかくですから今やってみてください。(今一度周囲に人が居ないことをご確認の上、自己責任で行ってください)

 

踵(かかと)を浮かせ、爪先を床に対して垂直に押し付けては力を抜くという反復動作を、非常に小刻み且つスピーディーに行ってください。…そのまま20秒くらいやってみましょう。

 

どうですか? 血行が良くなった感覚ありますか?

 

では、今度は「貧乏ゆすり」別バージョンの動作です。

腰掛けたまま両脚を肩幅程度に開き、ベタ足のままで両膝を小刻みに近付けたり離したり(⇒ワナワナ)する動作を、小刻み且つスピーディーに行ってみてください。そう、フクラハギと太腿がブルブルと左右に震えるように…。

 

どうですか?

こちらの動きの方が、グ~ンと一気に全身の血行が良くなった感覚がありませんか?

そう、恐らくこの別バージョンこそが「血行不良を改善する為の反射運動」なのだと、僕にはそう思えるのです。

 

でも…別バージョン、あまりやりませんよね。「貧乏ゆすり」といえば殆どが前者の「踵を上下動させる反復動作」です。 

 

なので、ここで取り上げる「貧乏ゆすり」は、この「踵を小刻みに上下動させてアキレス腱を伸縮させる反復動作」のバージョンに絞りたいと思います。

 

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「貧乏ゆすり」をする人、しない人、またその頻度など、かなりの個人差があることと思います。では、これは即ち、血行不良を起こし易い人とそうでない人の分類でもある、と言うことなのでしょうか…?

 

例えばどうでしょう…じっくりと集中してパソコンと睨めっこしている時などは、「貧乏ゆすり」しがちな人も、数時間じっと大人しく座りっぱなしで過ごせてしまうものではないでしょうか?

 

「そうか!集中すると血行不良は起こらないんだぁ!」…いえいえ、そうではありません。

 

上記のような状況からトイレに行きたくなったりして立ち上がろうとした時に、急に脚 or 足が痺れてふらついたり、脚 or 足の感覚が鈍くてギクシャクした歩き方になってしまうような経験、少なからずあると思います。 

 

この時、血行は充分悪いのに「貧乏ゆすり」をすることもなく座り続けていたというわけです。

 

が、もし「貧乏ゆすり」が単に血行改善の反射であるのならば、立ち上がるよりも前に何故、「貧乏ゆすり」が起きてくれていなかったのでしょうか?

 

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「貧乏ゆすり」が発現する理由の核心は、単に脚の血行不良を改善する反射とは少し別のところにあるのではないかと、僕はそう考えています。

 

この「貧乏ゆすり」を観念に縛られずに観察&考察していきますと、カラダには自らを機能させるためのスイッチのようなものが備わっていること、そして人間は年を重ねるにつれそのスイッチを押さなくなるということが見えてきます。

 

「貧乏ゆすり」が始まる時とはどんな時なのか、そのシチュエーションを幾つか思い出してみましょう。

 

例えば、座っている状態にあって、

 

・打ち合わせが終了の予定時刻を超えそうなペースで進行している時

・待ち合わせの相手がなかなか来ない時

・足止めを食った電車の中で待たされている時

                              …などなど。

 

これらは、長時間座り続ける状況の元に起きる「貧乏ゆすり」のパターンではありますが、こうして並べてみますと、単に長時間座ったことによる血行不良という物理的な側面ではない ❝何か❞ がそのスイッチを押す権限を握っているということが見えてきます。

 

そして、座るなりいきなり、或いは座って間もないのに…というパターンも実は結構あったりします。つまり、脚に血行不良が生じていない筈なのにも関わらず「貧乏ゆすり」をする時が少なからずあるのです。

 

では、こちらも幾つか…例えば、

 

・「まぁいいからそこに座って!」など、他者からの指図で座った時

・何か良いアイデアや名案はないものかと思考を巡らせた時

・パソコンなどに向かいながらの作業でピッチを上げようとする時

                              …などです。

 

このような時には「やれやれ…」とか思いつつ腰掛けますと、たった今折れ曲がったばかりの脚は、もう既に小刻みに揺れていたりします。

 

つまり、座っている時間の長さに関わらず = 血行不良であるなしに関わらず「貧乏ゆすり」は発現するということになります。

 

では前者の群と後者の群の共通点は何なのでしょうか? それは、

 

気持ちが落ち着かない状態にある

 

ということです。

 

つまり「貧乏ゆすり」=「踵を小刻みに上下動させてアキレス腱を伸縮させる反復動作」は、気持ちを落ち着かせることを最優先の目的として反射的に起こる運動行為であると、僕はそう思っています。

 

🦵

 

…結構な文字量になってまいりましたので、そろそろ終わりにしなければなりません。

 

さて、気持ちが落ち着いている状態とはどんな時に訪れるのでしょう。

 

それは、免疫が高まり、身&心が共にバランスの取れている時に訪れるのです。

 

即ち、アキレス腱を伸縮させる反復動作は、カラダをリセットする最もお手軽な運動なのです。

…これはあくまでも僕の考察ですが、…いや、これはまず間違いありません。

 

いつかその理由など、少し詳しくお話ししましょう。

 

だから、スクワット? ウォーキング? いえいえ、そんな頑張ろうとする必要はありません。

 

時々、ピョンピョン飛び跳ねてください。 

時々、手ぶら(スマホもNG)で散歩へ出掛けてください。

 

これで充分。そう、たったこれだけでカラダはリセットされるのです。

…でも、この2つ、暫くご無沙汰なのではありませんか? そう、衰えとはこんなことから始まるのです。決して、筋肉量が…とか、骨密度が…とか、〇〇の数値が…とか、そんなことを気にするより…せっかくですから、もう一度言っておきましょう。

 

時々、ピョンピョン飛び跳ねてください。 

時々、手ぶら(スマホもNG)で散歩へ出掛けてください。

 

🦵

 

それでは今回はこの辺で!(続々「日本人の特殊な能力」をお楽しみに…)

 

また次回お会いしましょう。

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。



*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。 



続・日本人の特殊な能力

こんにちは。整体師の香野です。


暑いには違いないものの、今ひとつ夏を感じられないままに立秋が過ぎてしまいましたが、皆様は如何お過ごしでしょうか…。

今回は前回「日本人の特殊な能力」の続編です。少しお久しぶりとなってしまいましたが、引き続きお付き合いの程、何卒宜しくお願い致します。


では、先ずは余談から…



何だか判りますか? これ、アボガドです。5月半ばに隣のクリエイトで買ってきて食べたアボガドの種をふと見ますと「生きます!」と言わんばかりのエネルギーを発していたので、その意向に応えるべく水に浸けておきましたところ6月初旬に根を出し、今ではご覧のようにすごい勢いで芽を伸ばし、葉を増やしているというわけです。


「そろそろ鉢に移して頂きたく…」という彼らの意向が、かなり前から提示されているのですが、中々時間を当てられませんで…ごめんなさい、アボガドさん、もう暫しお待ちを!


それでは本編に入らせていただきます。


🔨


前回は『世界三大伝統医学』について触れ、その続編となる今回ですが、一旦それ自体は置いておいて…皆さん、いきなり壮大なテーマでの質問となります。お付き合いください。


あなたにとって「持つべき技」「手に入れたい技」とは、一体どんなものですか? 

(保険会社のアンケートみたいですが)…そう、優先順位トップ3くらいで挙げてみてください。



如何ですか? 

絞り込んで1つだけ挙げた方、止めどなく思いつく方、また、既に今持っている技を挙げた方、これから手に入れたい技を想像した方、様々いらっしゃることと思います。


僕だと…そうですね、やはり先ずは今の自分に備わるもの、足りないもの含め「整体術」ということになりますね。


これが板前さんであれば、例えば「包丁さばき」だったり、宮大工さんであれば「木組み技術」だったり、経理課に務める会社員さんであれば「エクセル」だったりするのでしょう。


こうして生業や価値観が違えば、その回答も十人十色、無数にあるわけですね。


ただ、その「目的」ということになりますと、総括してまとめることができるのかと思います。

つまり、それらが「何のため」の技であるのか、ということを突き詰めますと、恐らく総じて、


「生き長らえるため」


ということに集約されるのではないでしょうか。


例えば、お金儲けに繋がる技であれ、愛されることに結びつく技であれ、人生を楽しくする技であれ、それら総ては何であれ、とどの詰まりは「生き長らえるため」に必要な方法論であり、この図式はいつ何時どの時代においても変わることのない普遍的なものなのではないかと思います。


「いやいや、私はそんな動物みたいなことじゃなくて ❝幸せになるために❞ という前提よ!」という方も少なくないかも知れません。が、それは厳密に言えば「目的」ではなく「目標」です。


「幸せになる」という目標を持つことで、「生き長らえる」ということに積極的になれるよう工夫をしているわけで、目的そのものはやはり「生き長らえるため」なのだと思います。


生きられることが当たり前の現代ですから、自分の未来に目標を設定する工夫をしないと、喜びのない人生になってしまうのかも知れませんね。


でも、どうでしょう…例えば、手の混んだ高価なものを食べて美味しいと感じるより、質素で素朴な食べ物を美味しいと感じられることの方が…ん〜何といいますか…そう、「優れている」のだと、僕は思うのです。


ですから、目標や夢を叶えることに人生の喜びを見出す人よりも、ただ生きているだけで喜べる人生を送り続けている人の方が「優れている」と、僕はそう思うのです。(「優れている」=お釈迦様が残した言葉でよく使われているこの表現を引用させていただきました、恐縮です(汗))



🔨


さて、皆さんに考えていただいた、ご自身の「生き長らえるため」に「持つべき技」ですが、実はそのどれもがある共通の ❝作業❞ によって出会っているのです。

それは、


選 択


という作業です。

何の技を持って生きるにせよ、誰しもが「どれにしよおかな?」をして、その技を選んだ経緯があるのです。


「いや、私はいつもただ成り行きに任せて生きています。」とおっしゃる方もいるでしょう。しかし、これも意識的な選択の作業では無いだけで、結果として既存の何かを選択をしている状態に収まっているのです。


僕もその昔、数ある補完代替医療行為の中から「整体術」という技を意識的に選択し、学ぶ先の師匠がたまたま「整体術」の中の「活法」というスタイルを継承している人であったため、結果として「活法」を選択していた、という経緯があります。


この「既にあるものの中から選択する」という作業が先ずあって、そこから自分の生き方がスタートする、だからこそ人は


僅かな時間で ❝食べていけるだけの技量❞ を身につける


ことを可能にできるのです。


「人にはそれぞれ自分の生き方があるのだ!」とは言いながらも、人間誰しもその能力の大部分が、「既にこの世に在る技」で形成されているのです。


言語、振る舞い、服装、習慣…総ての技という技は「先人の模倣」であり、いくら「今時の人類は…」などと現代人を特別視しようとしても、実際には先人の模倣の集合体です。


でも何故、会ったこともない昔の人の技を模倣できるのか…それは言うまでもなく「今に伝わる」からでありまして、先人側からすると「後の世に残した」からであります。


技を後の世に残す方法は、先ず「伝授」という手段が取られます。

これは自らの後継者を作る目的で1人〜少人数を対象に行われ、その後継者がまた次世代へと伝えるということを繰り返し、永い時を超えた今に生きる現代人に知らされるわけです。


🔨


現代人含め、後世は知らされようとする全てを受け入れるわけには参りません。前世から伝わる情報量は余りにも莫大…しかもその思想や方法論は互いに打ち消し合う内容も少なくないですから、自ずと「吟味」という ❝絞り込み❞ がなされるのです。


「吟味」する際に持ち出されるのが「信憑性」という物差しです。


さて、この「信憑性」を裏付ける基準をどう設定するか…実は、その設定に、世界と日本には大きな、大きな!違いがあるのです。


さぁ、やっと今回テーマの核心へと迫るシークエンスが来たのかも知れません!



…ですが、そろそろ長くなってまいりましたので今回はこの辺でお別れ…なのですが、

次回へのイントロダクションも踏まえ最後に言っておきましょう。


世界は「信憑性」を裏付ける基準をどう設定しているのでしょうか? それは、


「 体 系 化 」


という工程が施されているかどうか、なのです。これ、世界基準です…が、これが(=この感性が)歴史的に日本人が非常に苦手とするところであったのです…。


前回お話した『世界三大伝統医学』にしても、この「体系化」がなされたことによって、時を共有することがなかった現代に生きる沢山の人々が、その知識は共有することができるというわけです。


それでは今回はこの辺で!(続々「日本人の特殊な能力」をお楽しみに…)


また次回お会いしましょう。

皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。



*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用・NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用はお控えください。