整体に整体師は要らない!?

整体師範 香野勇雄 のブログです。

気持ちのケアこそ整体で

早くももう6月になりました!

皆さま、如何お過ごしでしょうか。

 

この時期は素晴らしく清々しい陽気から

一気にじめじめした日々へと突入する時でもあり、

その落差も手伝って、気持ちが鬱傾向になりがちだったりします。

 

さて、

昔から「病は気から」とよく言われますが、

確かにこれを疑う人は居ないと思いますし、

私もその実体験がありますので否定しません。

 

実はこの「王道パターン」とは少し違う

やや複雑な「変則パターン」もあります。

今回はその「変則パターン」について書いてゆきたいと思います。

 

     ∞

 

「病は気から」

つまり「気が病を呼び寄せた」と、そう見える時でも

実際には、その逆、やはり「気は病から」であったというケースが

かなり多いのではないかと、私はそう考えています。

 

自覚できた時点が、気持ちが低迷した時であっても、

実はもっと前から、身体の中に、気持ちを低迷させる原因因子となる

体調不良の「素」が宿っていた、ということで

「気持ちの低迷」は、その反応として現れた

「症状のひとつ」である、というケースです。

 

流れとしましては、

自覚できない体調不良傾向 → 気持ちの低迷 → 自覚できる体調不良 

という連鎖で、即ち

「このままだと体調不良になってしまう!」と危惧した身体が

その「お知らせ」として、気持ちを低迷させる、という構造です。

 

ですから、こういった場合では

気持ちの問題だからと言って、心療内科に行っても

スッキリ解決!という決着には中々至らないのです。

増して、安定剤などを処方され、依存症にでもなってしまったら

治る筈のものも治らなくなってしまう可能性も高まります。

 

     ∞

 

気持ちの問題こそ整体師の出番であると、私はそう考えていて

特に今回書いた「変則パターン」に於いては歴然です。

 

ただ、ここで整体師のスキルとして先ず大事になってくるのが

「お知らせ」が、何のお知らせだったのか、

宿っている「素」は何なのか、を見つける力です。

 

     ∞

 

現在、私のリピーターの方々の多くが、

気持ちが低迷したり、心が疲れた時にこそ

私を訪れるようにもなっていて、そうした時には

「身体の調子としては特に気になるところは無いのですけれど…」

と、こんな風に切り出してくれるのです。

 

もし、これをお読みいただいてる方で

ピンと来た方がいらっしゃいましたらご連絡くださいませ。

 

     ∞

 

それでは、今回はこの辺で…

 

いつか「王道パターン」の構造や原理などについても

書きたいと思っています。

 

 

 

 

 

活法と私

『活法』の技は『柔道整復術』となり今に至る」と言われることがあります。

 

確かに『活法』の技術の一部は『柔道整復術』として受け継がれたようですが、

体系化できたのは僅かのようです。

また、施術をする側とされる側の関係性とその考え方に於いて、両者は大きく異なると私は思っています。

『活法』は戦国時代、戦(いくさ)の最中に負傷した仲間を再び参戦させるための療術でもあったために、シンプルで即効性が高く、

また、そもそもが負傷者を相手にする前提ということもあって「受け手主体のアプローチ」が大前提となります。

例えば、整体の苦手な人が持つイメージ=「”される”感覚」というのがあります。

ですが、そうした苦手意識をずっと持ってきた方々も、私の施術を受けると「整体が好きになりました」「整体の見方が変わりました」と、決まってそう言ってくださいます。

しかも、施術が始まった瞬間にそう感じた、と言ってくださるのです。

     ∞

ところで、どういう経緯で私が無数にある整体の方法論の中から『活法』を学ぶに至ったのか…と、こう語り始めますと、何かとっても良い話になりそうな気を持たせてしまうかも知れませんが、実は、特にその目線を持って探した末の門を叩いたのではなく、整体術を学ぶに際し、私の師匠になった人がたまたま活法の継承者だった、ということなのです。(因みに、その師匠の師匠という人は『活法』が代々伝わる直系の末裔で、整体史にその名を遺す方です)そう、私はただただラッキーでした。

その師匠が代表を務める学校で、私はそれこそもう夢中で学びました。そうして夢中で学ぶうちに、またしてもラッキーが起こります。師匠直伝の特別授業が受講時間の後半に1時間程の時間を割いて行われることに突然なったのです。内容は門外不出の『活法』の手技の講義と実技練習でした。(この期間は後にも先にも私が在学中の僅か数か月間でした)

     ∞

整体師範となった私は、自宅からほど近い江の島島内のホリスティック施設内の整体院に勤め、『活法』の臨床を積み重ねていきますが、やがてそれを受け継ぐだけにとどまらない意識が強くなってゆき、『活法』の更なる進化を模索し試み始めます。

そして、およそ8年の歳月を掛け、現代人のナイーブで複雑な心身に合わせて日々洗練させたものが、今私が運営するサロン「こうのせいたい」で行われている整体であり、それは『活法』の ″現在進行形″ なのです。

     ∞

もし、このブログをお読みになって『活法』や私の整体術にご興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、大変うれしいことです。

お気軽にご連絡くださいませ。

活法(かっぽう)って何?

今回は前回の続編、『活法』についてです。

因みにこの『活法』は私が営むサロン名にもくっついている言葉です。

先ずザックリと『活法』とはどんなものなのかを一言で説明しますと
「戦国時代の侍たちが用い、今に伝えられる整体術」
というところでしょうか。

ただ、『活法』という語そのものは、その当時は無かったようで、これについては『殺法』も然りなのだそうで、その両者それぞれの呼称は明治の頃に付けられたようです(具体的な経緯などについてはここでは割愛いたします)。

ある歴史研究によれば、それらを総称して『兵法』と呼んでいたということで、その説に沿って考えれば、それぞれを分ける概念すら無かったいうことになります。
ですが、このブログでは分かりやすくする上で、敢えて『殺法』と『活法』という言葉を用いて説明していこうと思います。

さてその昔、武士たちは「表武道」=『殺法』を修練するのと同時に『活法』を同時に修練していました。それは、戦地で負傷し放置しておけば戦力外となってしまうであろう同志を復元させる為の蘇生術であり、また、城内での訓練の際に負傷した時に行うリカバリーの術でもありました。

この技術レベルの高低は、即ちその藩や城の武力の優劣に結び付くものでもあったため、どこにおいても門外不出の秘儀として扱われたのは言うまでもありません。教えるべき者のみに教えるようにして…例えば、一子相伝という形で後継者に直伝されるなどして後世に継がれました。

広く知られてはならないその技法や理論は、統合&体系化するなどして公の書物などに纏められることの無いまま、各流派ごとの伝承というかたちで生き永らえたわけで、今の世にその存在と内容がよく知られていない理由がここにあるのでしょう。

        ∞

この続きはまた近日中に。
 

活法のはなし

「整体」って、どういうことを言うのでしょうか?

と、こんな風に謎かけをしておきながらも、
実は私にも「これだ!」「これが整体なんだ!」という明快な説明はできません。

今日実践されている方法論やテクニックは、
それこそ整体師の数だけ在るというのが現状かと思いますし、
これはとても素晴らしいことであると、私はそう思っています。
その理由などについては後述することになりますが…

ところで!
皆さんは時代劇、特に侍映画=「チャンバラもの」をご覧になりますか?

 

 

「いきなり何を言い出すのぉ!?」と思われるかも知れませんが、
整体の正体を見付けるため、よく知ってもらうために、
とても大事なお話なので暫しお付き合いくださいませ。

日本独特の歴史を肌で感じる上で、
このチャンバラ映画は重要なものであると言って良いのだと思いますが、

恐らくどの作品にも描かれたことのない、侍の世界には不可欠だった
” リアルな分野 ” があったことをご存知でしょうか。

武術に於いて描かれているのは、
攻撃とそれに対する守備=『殺法』ばかり。
生々しい表現で言い換えれば、「殺す方法」と「殺されない方法」です。

では、それだけで武術が成立するのでしょうか?

確かに剣術という範囲で考えればそうかも知れません。が、
総合的に武術として考えるのであれば、
極めて大切なもう一つの要素が丸ごと欠けています。

「殺す方法」と「殺されない方法」、これらは何れも1対1の世界で、
つまりは自己完結の世界。

ですが、戦(いくさ)ともなれば敵も味方も多数になります。

さて、勘の良い方はそろそろお気付きかと思いますが、
「殺す方法」と「殺されない方法」と、あとのもう1つ、それは、

       「死なせない方法」

です。
「死なせない方法」とは即ち「活かす方法」であり、
そしてその具体的方法論を総称して

       「活法(かっぽう)」

と呼んだのです。
そう、本来「武術」とは『殺法』と『活法』の双方を示すものだったのです。

                 ∞

この続きはまた近日中に…。

 

「言霊」上手に使えていますか?③

以前、

私がある救急医療のNPOと関わっていた時、

その代表の方に、食事の席で

こんな言葉を頂いたことがありました。

その方は、「まるでキリストのような」と

形容できるほどの人格者で、とても心の優しい人でした。

 

「ここのお料理ホント美味しいですねぇ。

とても楽しい時間が過ごせて、今日は感激です。

…ところで香野さん、

今お箸を運んでいるその口は、

本当は何のために在るのか、解りますか?

やっぱり美味しい物を食べるため? 

それとも相手に自分の主張を通すため?

香野さん、そこについているその口はね、

”人を励ますため” に在るのですよ」

 

ポカンと口を開けたままになってしまった私に

彼は話を続けてくれました。

 

「励まされた人は、それだけで幸せな気持ちになります。

そうでなかった人は、それだけで寂しい気持ちになります。

人は、励まし合うことでお互いを幸せにしてゆく、

そういう生き物なのです」

 

衝撃でした。

それまで、ただ勢いで生きてきた若造にとっては痛烈に。

 

「洗礼」という儀式は、

かくも予想しない時に訪れるものなのですね。

 

         ∞

 

恐らく、その時の彼よりも年上になった今、

あの言葉の通りに生きていた彼に

少しでも、ほんの少しでも近付いてみたいと

そう思いながら、今、私は生きているのかも知れないと

そう感じられることが、

何とも有難かったりするのです。

 

〈次回に続く〉

「言霊」上手に使えていますか?②

言葉は人の行動や活動を司るものです。

人の健康も、人の幸福も、

言葉による支配を受けている者たちです。

 

言葉には、

「人を健康にするチカラ」

「人を幸福にするチカラ」

があるのです。

 

例えば、貴方の大切な人、信頼を寄せる人が

「大丈夫、心配することは無いですよ」

と、優しい言葉を掛けてくれたら

それだけで体調が良くなったり、

幸せを感じたりするものです。

 

こんなことだってあります。

お医者さんから

「あなたは数値的に問題なし!健康です!」

と言われたら、それだけで

心の曇りが晴れ、幸せな気持ちになりますし、

「俺は健康なんだよ」と

家族や友人に言い切ったりもしてしまう…。

 

そう、信頼する発言者からの言葉が

自分を「健康の部類」に納めてしまったのです。

 

仮にその時、本当は健康でなかったとしても、

これを境に、健康な状態へとグイグイ導かれることは

十分ありえる&往々にしてあることなのです。

 

〈次回に続く〉 

「言霊」上手に使えていますか?

「言霊」

というと、何かこう…特別で

この世のものでは無い、

得体の知れない力の作用を示すようにも感じますが、

それは近代になってからの解釈であると

私はそう思っています。

 

「霊」という意味合い自体、

身近に在るべくして在る=ごく当たり前の存在から、

「科学的根拠」や「エビデンス」などという

疑い深い人を安心させるための ”近代兵器” によって、

貧素な秤の上に乗せ、少し離れたところから

冷ややかに眺めるものへと

変えられてしまったのでしょう。

 

「信じる方ですか!? 信じない方ですか!?」

「いや、僕はそれって在る!と思うんですよぉおおっ!!」

 

…どうだって良いと思います、そんなことは。

 

つまり、

「言霊」とは、言葉に帯びる

人を動かすために作用するチカラ、エネルギーのことだと

私は認識しています。

 

〈次回に続く〉