続・日本人の特殊な能力
こんにちは。整体師の香野です。
暑いには違いないものの、今ひとつ夏を感じられないままに立秋が過ぎてしまいましたが、皆様は如何お過ごしでしょうか…。
今回は前回「日本人の特殊な能力」の続編です。少しお久しぶりとなってしまいましたが、引き続きお付き合いの程、何卒宜しくお願い致します。
では、先ずは余談から…
何だか判りますか? これ、アボガドです。5月半ばに隣のクリエイトで買ってきて食べたアボガドの種をふと見ますと「生きます!」と言わんばかりのエネルギーを発していたので、その意向に応えるべく水に浸けておきましたところ6月初旬に根を出し、今ではご覧のようにすごい勢いで芽を伸ばし、葉を増やしているというわけです。
「そろそろ鉢に移して頂きたく…」という彼らの意向が、かなり前から提示されているのですが、中々時間を当てられませんで…ごめんなさい、アボガドさん、もう暫しお待ちを!
それでは本編に入らせていただきます。
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前回は『世界三大伝統医学』について触れ、その続編となる今回ですが、一旦それ自体は置いておいて…皆さん、いきなり壮大なテーマでの質問となります。お付き合いください。
あなたにとって「持つべき技」「手に入れたい技」とは、一体どんなものですか?
(保険会社のアンケートみたいですが)…そう、優先順位トップ3くらいで挙げてみてください。
如何ですか?
絞り込んで1つだけ挙げた方、止めどなく思いつく方、また、既に今持っている技を挙げた方、これから手に入れたい技を想像した方、様々いらっしゃることと思います。
僕だと…そうですね、やはり先ずは今の自分に備わるもの、足りないもの含め「整体術」ということになりますね。
これが板前さんであれば、例えば「包丁さばき」だったり、宮大工さんであれば「木組み技術」だったり、経理課に務める会社員さんであれば「エクセル」だったりするのでしょう。
こうして生業や価値観が違えば、その回答も十人十色、無数にあるわけですね。
ただ、その「目的」ということになりますと、総括してまとめることができるのかと思います。
つまり、それらが「何のため」の技であるのか、ということを突き詰めますと、恐らく総じて、
「生き長らえるため」
ということに集約されるのではないでしょうか。
例えば、お金儲けに繋がる技であれ、愛されることに結びつく技であれ、人生を楽しくする技であれ、それら総ては何であれ、とどの詰まりは「生き長らえるため」に必要な方法論であり、この図式はいつ何時どの時代においても変わることのない普遍的なものなのではないかと思います。
「いやいや、私はそんな動物みたいなことじゃなくて ❝幸せになるために❞ という前提よ!」という方も少なくないかも知れません。が、それは厳密に言えば「目的」ではなく「目標」です。
「幸せになる」という目標を持つことで、「生き長らえる」ということに積極的になれるよう工夫をしているわけで、目的そのものはやはり「生き長らえるため」なのだと思います。
生きられることが当たり前の現代ですから、自分の未来に目標を設定する工夫をしないと、喜びのない人生になってしまうのかも知れませんね。
でも、どうでしょう…例えば、手の混んだ高価なものを食べて美味しいと感じるより、質素で素朴な食べ物を美味しいと感じられることの方が…ん〜何といいますか…そう、「優れている」のだと、僕は思うのです。
ですから、目標や夢を叶えることに人生の喜びを見出す人よりも、ただ生きているだけで喜べる人生を送り続けている人の方が「優れている」と、僕はそう思うのです。(「優れている」=お釈迦様が残した言葉でよく使われているこの表現を引用させていただきました、恐縮です(汗))
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さて、皆さんに考えていただいた、ご自身の「生き長らえるため」に「持つべき技」ですが、実はそのどれもがある共通の ❝作業❞ によって出会っているのです。
それは、
選 択
という作業です。
何の技を持って生きるにせよ、誰しもが「どれにしよおかな?」をして、その技を選んだ経緯があるのです。
「いや、私はいつもただ成り行きに任せて生きています。」とおっしゃる方もいるでしょう。しかし、これも意識的な選択の作業では無いだけで、結果として既存の何かを選択をしている状態に収まっているのです。
僕もその昔、数ある補完代替医療行為の中から「整体術」という技を意識的に選択し、学ぶ先の師匠がたまたま「整体術」の中の「活法」というスタイルを継承している人であったため、結果として「活法」を選択していた、という経緯があります。
この「既にあるものの中から選択する」という作業が先ずあって、そこから自分の生き方がスタートする、だからこそ人は
僅かな時間で ❝食べていけるだけの技量❞ を身につける
ことを可能にできるのです。
「人にはそれぞれ自分の生き方があるのだ!」とは言いながらも、人間誰しもその能力の大部分が、「既にこの世に在る技」で形成されているのです。
言語、振る舞い、服装、習慣…総ての技という技は「先人の模倣」であり、いくら「今時の人類は…」などと現代人を特別視しようとしても、実際には先人の模倣の集合体です。
でも何故、会ったこともない昔の人の技を模倣できるのか…それは言うまでもなく「今に伝わる」からでありまして、先人側からすると「後の世に残した」からであります。
技を後の世に残す方法は、先ず「伝授」という手段が取られます。
これは自らの後継者を作る目的で1人〜少人数を対象に行われ、その後継者がまた次世代へと伝えるということを繰り返し、永い時を超えた今に生きる現代人に知らされるわけです。
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現代人含め、後世は知らされようとする全てを受け入れるわけには参りません。前世から伝わる情報量は余りにも莫大…しかもその思想や方法論は互いに打ち消し合う内容も少なくないですから、自ずと「吟味」という ❝絞り込み❞ がなされるのです。
「吟味」する際に持ち出されるのが「信憑性」という物差しです。
さて、この「信憑性」を裏付ける基準をどう設定するか…実は、その設定に、世界と日本には大きな、大きな!違いがあるのです。
さぁ、やっと今回テーマの核心へと迫るシークエンスが来たのかも知れません!
…ですが、そろそろ長くなってまいりましたので今回はこの辺でお別れ…なのですが、
次回へのイントロダクションも踏まえ最後に言っておきましょう。
世界は「信憑性」を裏付ける基準をどう設定しているのでしょうか? それは、
「 体 系 化 」
という工程が施されているかどうか、なのです。これ、世界基準です…が、これが(=この感性が)歴史的に日本人が非常に苦手とするところであったのです…。
前回お話した『世界三大伝統医学』にしても、この「体系化」がなされたことによって、時を共有することがなかった現代に生きる沢山の人々が、その知識は共有することができるというわけです。
それでは今回はこの辺で!(続々「日本人の特殊な能力」をお楽しみに…)
また次回お会いしましょう。
皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。
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