コロナウィルスに関して~臨時号続編~
毎月1回お届けの整体コラム2020年4月号をお届けします。
春です。朝晩の急な冷え込みもそろそろ大丈夫そうです。皆さまは如何お過ごしでしょうか?
でも…なんかこう…今年の春の入り方は厳しい寒さを味わわないまま…というこの流れが、ちょっと申し訳ないような、ある意味物足りないような、そんな入り混じったアンニュイな気持ちに僕は包まれているのです。が、巷ではコロナウィルスに翻弄される日々が、まだまだ続きそうですね。日本は、世界は、人類はこの先どうなってゆくのでしょうか…。
前回は臨時号のコラムとして、コロナ騒動の渦中である今「すべきこと」を、僕なりの見地から簡潔に書かせていただきました。今回もまた臨時号続編として、前回とは違った角度で、ウィルスや細菌感染などに対して元々カラダに備わるチカラ=免疫力について書いてみようと思います。
それに伴い、「痛み」って何者ですか?~その捌(八)~にて書こうと思っていた❝「心理的逆転」のちょっと複雑なケース❞につきましては、次回5月号でお届けすることとなります。
尚、前回同様、僕はウィルスや細菌、伝染病のことなどに関しましては専門外ですので、その危険性などには触れません。あくまでも1/代替医療の従事者という立場から書かせていただきます。
また、ここに書かれる内容は、コロナウィルスにターゲットを絞った見解ではなく、あくまでもカラダを健康に保つための一つの考え方としての提案です。
「こんな事態に…長々と書かれた文章に付き合ってる場合じゃないよ!」というテンションにまで達している方も沢山いらっしゃるであろうことを考慮し、冒頭で今回伝えようとしていますところの結論から言ってしまいます。
自分の身の安全だけを守るようにして生きる時、免疫力は下がります。
というところで、今回のコラムはこれにて終了! としたいくらいの感が僕の中にはありますが、無責任なコラムになってもいけませんので、少し補足を書くことにいたします。
前述の理由を、少し話を大きくして考察してみることにします。
そもそも、
生物は何のために生まれ、何のために生きているのでしょうか?
人間は何のために生まれ、何のために生きているのでしょうか?
…ご安心ください。僕はダーウィンの理論を発展させるような難しいことはできませんし、ゴーギャンに応えるような哲学的見解を表現をすることもできません。楽な気持ちでお付き合いください。
では先ず、生物が生きる目的とは何なのでしょうか?
群れ、或いは種として考えた場合のそれは、先ずは「絶やさない」「種を存続させる」という極めてシンプルなことなのだと思います。
個としての目的はどうでしょう。
意識としましては、その時その時置かれた状況に反応して変化し続けるのでしょうが、何れにしましても、全ては「生き長らえるために」「子孫を残すために」という、これも極めてシンプルなことが前提になっていることと思われます。
こうしてみて判る通り、個としての生きる目的は、即ち群れとしての生きる目的が達成されるための❝仕掛け❞になっている、というわけです。
個はそれぞれの自然環境下で、各々「適応」を試みながら、様々な「生き長らえるための能力」「子孫を残すための能力」を獲得し、それらが長い年月を経て、どの個体にも=時代を越えた同種の他者(後世の子孫達)にも共有できるものになってゆくのです。これは生物の「進化」の仕組みでもあります。
ある個体の新たに獲得した能力が、その事実を目撃することのない他地域に生きる同世代にもほぼリアルタイムで「伝播」し、世代を跨ぐことなく種としての新たな能力となる、極めて短時間で完了する進化のパターンもあるようです。
つまり、「個が授かった時間=生命は、同種の他者を強めるために在る」というのが生物の摂理なのです。
そして、これを遂行すべく生きる個に与えられるものこそが「生き長らえるためのチカラ」です。
ですからそれと反対に、遂行すべく生きない個は、仮に「今を生きるチカラ」は持てたとしても、「生き長らえるためのチカラ」は不要となるのです。
更に、同種の他者を弱めてしまうように生きる個には「今を生きるチカラ」すら不要となります。
さて、人間の場合はどうなのでしょうか?
人間は最も優れた生物だから、他の生物の摂理は、もはや当てはまらないのでしょうか?
いやいや、人間は紛れもなく1/生物です。これは絶対的な事実です。
ですから、前述の生物の摂理が人間にだけは当てはまらない、というわけにはまいりません。
では締め括りに、生物の摂理を❝人間バージョン❞に言い換えまして今回はそろそろお別れです。
「個人が授かった時間=誰しもの人生は、他人を強めるために在る」
如何でしたでしょう。
免疫力の正体がほんの少し(或いはその全貌が?)見えたのではないでしょうか?
以上、ティッシュペーパーを大量に買い占めてしまった方々に特に捧げる、今回のコラムでした。
★4月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう。 香野勇雄
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
コロナウィルスに関して~臨時号~
臨時号をお届けします。
号外なのですが、コロナウィルスに関しまして、このブログを読んでくださっている皆さまにお伝えしておきたいことを少し書こうと思います。
尚、僕はウィルスや細菌、伝染病のことなどに関しましては専門外ですので、その危険性などには触れません。あくまでも1/代替医療の従事者という立場から書かせていただきます。
先ず、冒頭で言っておきたいのは、マスコミ(特にテレビを中心にした放送メディア)の❝怖がらせ❞に反応し過ぎないで欲しい、ということです。
その理由は、情報の信憑性や演出の方法論がどうのこうのということではなく、皆さんの大切なカラダが本末転倒な悪循環に晒されてしまうからです。
我々のカラダは、強烈なストレスを受けて、恐怖に怯えるような状態になったりパニックのような状態になりますと、事が落ち着いた頃になってから免疫力が著しく低下した状態に陥るというリスクを背負います。
昨年秋、台風19号の直後から約2ヶ月あまりの間、「原因不明の体調不良」で訪れたお客さんが急増しました。その方々に共通していたのは、心臓の疲労を伴う身体機能の低下と孤独感や虚脱感を伴う鬱症状などで、しかもそれらが長期化しているという…それはPTSDと言っても差し支えないであろう症状でした。また、その中には「あの台風(19号)の後くらいから…」という自覚をされている方も結構いらっしゃいました。
では、台風19号は他の台風と何が違ったのでしょうか?
圧倒的に違っていたもの、それは台風そのものの質ではなく、接近に伴って各放送メディアが競うようにして放った「警戒を呼びかける情報」です。
今にして思えば、それはあたかも「何をしても死んでしまうのかも知れませんが…」という前提の物言いで、それが国民に向けて絶えず繰り返されたのでした。
勿論、最悪の想定もしなければならないであろう局面では、命を守ることこそが最優先であり、メディアからすれば必要に迫られた結果、「軽んじてはいけない」ということを伝えたいがあまりに行ったことで、見る者、聞く者に心的ダメージを与えようなどという気はさらさら無かったことと思います。
が、その良かれとした結果が、逆に大勢の人々のその後の健康を脅かすことになってしまったのだなぁという…何とも釈然としない感覚が、僕の気持ちの中には未だ残っています。
僕自身もこのコラムの11月号で、緊急事態としての警戒を呼び掛けており、今となってはとても複雑な心境です。
そしてコロナウィルス騒動が加熱する今現在、お客さんのカラダを診ながら感じているのは「あの時に似ているなぁ」ということです。それは、心臓が疲れている人の頻度が急速に高まっていることなどから実感することでもあります。
何のウィルス相手であれ、何の恐怖相手であれ、「怖がる」こと自体は身を守ってくれません。
どんな状況下であっても身を守ってくれるのは「適切な備え」であると、僕はそう思っています。「適切な備え」=トイレットペーパーを買い占めること? 違います。
「適切な備え」として今すべきことは、コロナウィルスを怖がることではなく、「免疫を高めるための日常的行動」です。
日光(極力午前中)を浴び、深い呼吸(複式~胸式~吐き切る)を心掛け、積極的に水(できればミネラルウォーターを白湯にして)と質の高い栄養(ビタミン&ミネラル&繊維質を意識)を補給し、身体(特に小腸)を冷やさないようにし、しっかり歩き、充分な休息を摂る。
これらを❝楽しみながら❞日々続けてみてください。
皆さまの健康を心よりお祈り申し上げます。
具体的に判らない、方法論で迷う、もっと詳しく知りたい、などの際は、私香野まで(0466-298-0688:えのすぱ代表)お問合わせください。また、整体を受けることも免疫を上げる手段として非常に有効なのですが、外出すること自体のリスクを考慮しなければいけない状況下となってしまいましたので、推奨するという姿勢は控えさせていただきます。
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「痛み」って何者ですか?~その漆(七)~
毎月1回お届けの整体コラム2020年3月号をお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*3月号 「痛み」って何者ですか?~その漆(七)~
日ごとの極端な寒暖差、この冬は少し異常ですね。本当に寒くならないまま春になってしまうのでしょうか。2月が暖かくて3月になってから急に寒くなった昨年を思い出したりしますが…。
1月〜2月にかけてしっかり寒い日が連続してくれませんと、基礎代謝が上がり切らないまま春を迎えることとなり、四季と連動するプログラミングが施された我々日本人のカラダのコンディションは迷走しやすくなります。
&新顔のウィルスに対してもかなり心配されていることと思います。花粉症の知人が「今年は花粉症とか言ってる場合じゃないっすよぉ!」と言っておりましたが…。
この春は呑気になれない春かなぁ、と思ったりする今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
引き続き「痛み」についての考察をしていきましょう。
前回コラムの巻末で予告しましたとおり、「心理的逆転(しんりてきぎゃくてん)」が作り出す慢性痛について、ご一緒にお付き合いください。
時に人間は、病や不具合の中にあって「治りたい」と「治りたくない」という相反する望みが同居してしまうことがあります。
自覚している意識(=顕在意識)としては「治りたい」であるのですが、心の奥にひそむ意識(=潜在意識)としては「治りたくない」が、同時に存在してしまうのです。
そんな状態を「心理的逆転」と呼ぶのですが、この「心理的逆転」が起こりますと、直ぐに治る筈の病気や、速やかに治まる筈の痛みが、思いのほか長引いてしまったり、日を増すごとにその症状が重くなってしまったりしてしまうことになります。
例えば、僕の臨床において、よくこんなケースがあります。
たまたま僕の施術を受けることになったお客さま…初めは慰安目的を主張していましたが、インテークしていくうちに本当に困っている事柄を明かしてくれます。
「実は右の股関節が○年以上前からずっと痛くて、…これ以上開かないんですよ」とのこと。さぁ、ここで「なるほど、了解、お任せを!」「では宜しく!」という具合に、意気投合してセッションのスタートが切れれば、シンプルで望ましい結果も大いに期待できるパターンです。
が、今回はそうはいきません。その後もその方の言葉が続きます。
「…でも、これまで何年もの間、色んな所に行っては、色んな方法で治療して…多少は善くなったかなぁって感じはしますけど、これ以上は限界かなぁと…今日はカラダ全体をほぐしてください」
このような❝本来の主訴諦め系❞のお客さまは、実は結構な頻度でいらっしゃいまして…でも、聞いてしまったからには「どうにかしましょう!」というのが僕の信条ですので、股関節改善のアプローチも組み込んだ施術をすることになります。
で、その結果、一回の施術でその長年の問題が解決した、或いは今までにない改善を見せたとします(手前味噌で恐縮ですが、実際かなりの確率でそうなります)…が、この方が心の底から喜んでくれる確率というものは、決して100%では無いのです。
さて、もしこの状況に置かれたら、大抵の人は2つの気持ちが入り交じるのではないでしょうか?
「今日ここに来て良かった。とても嬉しい」という気持ちと、
「今まで何やっていたんだろう。とても悔しい」という気持ちと…。
つまり、この結果を受け入れるということは、「今まで掛けた時間と費用の多くが無駄であった」「これまでの行動が適切ではなかった」ということを認めることにも繋がります。
ここで、現在の嬉しさと、過去に対する悔しさ、そのどちらに軍配を上げるか葛藤が始まります。
この葛藤は、こうした状況に置かれれば、誰であれ普通に起こる心理現象なのだと思いますが、結局は多くの人のカラダがその施術結果を受け入れ、改善した状態を保持してくれます。
が、その一方で、カラダがその結果を跳ね返してしまうという人も少なからず居ます。
潜在意識のもとで、過去に対する悔しさが、今現在の嬉しさに勝ってしまい、結果、このうちの何割かの方は、残念ながらその後も不具合の感覚や痛みと付き合い続けることとなってしまいます。
そしてその中には、一旦は改善をしたのだが、また時が経つに連れ…という、❝ぶり返し型❞の人も居るのです。
痛かった頃を思い返すうちに「長年自分を苦しめた股関節の不具合は、自分の的確ではない行動が作り出したもので、そもそも長期化するべきものではなかったのだ」という、後悔の念が発現しないよう、無意識のうちに改善していない状態の再構築がなされていくのです。
再構築されるのは感覚にとどまらず、物理的な体型の変異などもそうなるのです。不思議と思われるかも知れませんが、「イメージはカラダを動かす」のです。これは整体師である僕が、日々目の当たりにしている事実なのです。
何れにしましても、痛みを持ち続ける、或いは呼び戻してしまうそれらの方々に共通するのは、後悔するということにとてもネガティブなイメージを持っていて、そうならないことに執着するあまり、「今」と「これから」に義理立てするエネルギーより、「これまで」に人情を傾けるエネルギーの方が強くなりがちな傾向を持っている、といところです。
整体師という仕事を続けていますと、自分が本当に望んでいる状態がどんな状態なのかを認識できている人間は、実はかなり少ないのかも知れない…と、そう思ったりしてしまうのです。
…いやはや、人間とはかくも複雑な生き物なり、なわけです。
さて、次回は「心理的逆転」のちょっと複雑なケースを、ある一つの臨床例から見ていきたいと思います。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう…
★3月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
また、NAVERまとめ等のまとめサイトへの引用を厳禁いたします。
「痛み」って何者ですか?~その陸~
毎月1回お届けの整体コラム2020年1月号をお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*2月号 「痛み」って何者ですか?~その陸~
新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。
一気に冬本番へと加速してきた今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
本編へ入る前にこの場を借りて、年明け冒頭いきなりのインフォメーションで失礼します。
只今江の島整体「癒芽身」では施術スタッフを募集しています。詳細は香野までご連絡を!
…というわけで、今回も「痛み」についての考察をしていきましょう。
皆さんは「コップの水理論」というのをご存知ですか?
これはオーストリアの著名な経営学者ドラッカー氏が説いたものなのですが…っていきなり経営論?ちょっと方向違ってない?って?…いえいえ、まぁ待って下さい。この理論は、起こった出来事をどう見るかでその先がどう変わってゆくのか、ということを象徴的に言い得ていて、見方を工夫すると整体においても大切な教訓として咀嚼できるものだと僕は思っているので、ここでちょっとご紹介&掘り下げさせてもらいます。
半分だけ水の入ったコップを見た時、あなたならそれをどう評価するでしょうか…?
コップに水が半分残っている? コップから水が半分減っている? …と、ここまでのくだりは、ポジティブ思考 VS ネガティブ思考の判別テストなどで馴染みのある人も多いかと思います。
「そうそう!半分も入っているって感じられる人はポジティブ思考で❝勝ち組❞の人の共通点なんだよね!」…いえ、そんなことではございません。
さてドラッカー氏はどのように説いたのでしょうか…
「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」(ドラッカー)
イノベーションとは「革新」の意味で、経営学用語としては「技術革新」「新しい切り口」など、❝新しいアイデアなどから社会的に大きな変化をもたらす価値のある変革❞を指す時にあてられる言葉のようです。
つまり、コップの空いている容量に意識を向けた時、今までとは違う新たな価値あるものを得るチャンスが訪れるという…ん〜、経営論にとどまらず、人生論としても考えさせられる哲学的な格言のようにも思えてきます。
この理論は、以前僕のセミナーで「若さの再生」をテーマに講義した際に引用させていただくにあたって改めて勉強することになったのですが、その時に「あ、似てるなぁ」と思いました。それは、僕が慢性痛に悩むお客さんに「痛みとの上手な向き合い方」をカウンセリングする時の説明と、比喩の構造みたいなところがとても似ていると感じたのです。
では、僕のカウンセリングでの文句をお聞かせする前に、僭越(せんえつ)ながら、ドラッカー氏の理論を「痛み」になぞらえて言い換えてみようと思います。
「痛みが『半分残っている』と『半分減った』とは、痛みの大きさとして同じである。だが、意味はまったく違う。来るべき状況も違う。あなたの認識が『半分残っている』から『半分減った』に変わるとき、その痛みと決別する機会が生まれる」
どうでしょうか、「な、なんか分かる気がする、それ」という、漠然とだけれど納得できる感覚を得た方、結構いらっしゃるのではないでしょうか?
因みに、僕は慢性痛の方に、以下のように痛みとの向き合い方のアドバイスをしています。
「最高に辛かった時の痛みが10割だったとして、今はその4割くらいになっているとしたら、その残った4割の痛みに執着せず、減った6割の痛みに感謝してその喜びをカラダに伝え、痛みを減らすことに成功したカラダを褒めてあげてください。そうしていくうちに痛みは4が2になり、1になり…と減ってゆきます。でも『まだ6痛い』というように、残った痛みに意識を奪われると、その痛みは中々減っていかないし、場合によっては10の痛みに戻ってしまうこともあります」
念の為おことわりしておきますが、このアドバイスでお客さんを暗示に掛けてコントロールしようとしているのではありません。臨床や自分の体験も含め、痛みについての学習を僕なりにしてきた末のアドバイスなのです。
実際に、意識を上記のように変えるよう心掛たことで、何年か越しの痛みから開放されて喜んでいる僕のお客さんの数は少なくありませんので、現在長引いている痛みをお持ちの方、是非試してみてください。
…さて、話を進めましょう。
慢性痛に苦しむ方の多くは「残った痛みに執着しがち」という傾向にあります。彼らは、どうしても痛みの減り幅に意識を寄せらず、痛みの残量に執着してしまいます。例え残った痛みが僅かであっても、それに昼夜意識を向け、目を近付けて凝視するように痛みを監視し続けることで、全意識の中でその比重が増大し、痛みと決別することが困難になってしまうのです。前述のアドバイスにもあったように、人によっては元の痛みの大きさに戻ってしまったりもします。
ただ、減り幅を意識できる人&残量に執着しがちな人、何れのタイプであっても「痛みと決別したい!」という純粋な意思=本心があれば、やがてそれは時間の差こそあれ実現に向かうのだと、僕はそう思っています。逆の言い方をすれば、痛みがなくなる際には、そこに「痛みと決別したい!」という本心が必ずや存在している、ということです。
さて、今、敢えて「本心」という言葉を持ち出しましたが、慢性痛の中には非常に厄介なケースがあります。それは「痛みと決別したい!」と思っていながらも、実はそれが「本心」ではない、といったケースです。
その根底にあるのは「改善を認めたがらない」=「治りたくない」という心理で、これが自我の奥底に潜んでいると、痛みを大切に保持し続けてしまうのです。
前回のコラムでお話しした疾病利得(しっぺいりとく)もそうなる理由の一つなのですが、こうなってしまう現象の総称を「心理的逆転(しんりてきぎゃくてん)」と言います。
次回はこの「心理的逆転」が創り出す慢性痛について考察していこうと思います。
それでは今回はこの辺で…。
★2月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう… 香野
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
「痛み」って何者ですか?~その肆(4)・仕切り直し編~
毎月1回お届けの整体コラム2019年12月号のバックナンバーをお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*12月号 「痛み」って何者ですか?~その肆(4)・仕切り直し編~
やっと秋が来た感じだなぁ…あれ?もうすぐ年末じゃないですかぁ!という感じの今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
前回は台風直前だったため一回コラムはお休みしましたので、前々回に引き続き…の今回。「痛み」についての考察をしていこうと思います。
いきなり質問からスタートします。
皆さんは不安になった時、どんな行動を取りますか?
・知人、友人に相談する
・不安を忘れようと何かをして気を紛らわせる
・不安を解決するための商品を買う
・不安をもたらした対象について本やインターネットで調べる
etc.
と、まだあるかとは思いますが、大体こんなところでしょうか…
では反対に、安心した時、どんな行動を取りますか? どうでしょうか、思い当たることが中々見つからないのではないでしょうか? そう、安心したら特に何もしないですよね。
つまり、人は不安になると新たな行動を取る、安心したら今までどおりの日常に戻る、ということで、強烈な不安に包まれるとそれを解消することを最優先に元々の生活を変化させたりもします。
そして、どんな不安解消であれ、共通していることがあります。
「お金を使う」ということです。
相談する相手に会うにしろ、メールするにしろ、電話をかけるにしろお金を使います。
気を紛らわせようとゲームをするにしろ、映画を見るにしろ、お酒を飲むにしろお金を使います。
解決させる商品購入は勿論、不安因子のリサーチの際にもお金を使います。
言い方を変えれば、人は不安になるとお金を使うことでそこから解放されようとするのです。
これは近世の経済機構の根本であり、不安こそが経済を動かしている、と僕はそう思っています。
逆に全ての人々が安心したら経済は崩壊してしまうでしょう。現状に満足であるという価値観が蔓延する世の中ではお金が移動しないのです。
「安心は金を産まないが不安は金を産む」というのが資本主義経済のセオリーになっていて、世の中に常に新しい不安因子をばら撒き続けると、経済は生き物であり続けるのだなぁと、僕は悲しい気持ちで現代という時代を見つめています。
今日、人間が痛みに対して臆病である現況は、そのマス操作によって意図的に作られたものであると言って良いかと思います。即ち我々は元々痛みに臆病なのではなく、臆病にさせられてしまったわけで、その結果、痛い=悪いこと→不安→消費(薬を買う、サプリを買う、医者に見せる、etc)という図式を何の疑いもなく実行しているのです。
マス媒体(一部の宗教も含む)を取り仕切る人々が、個人の健康(≒幸せ)よりも社会の経済効果を優先する政治に寄り添う時代が長く続いたことが、人々に痛みと不幸を直結して考える習慣を蔓延させました。これは近世が犯した大罪の一つです。先進国の人ほど長く生きること(=人生の長さ)に強迫観念的な執着を持つのも、その延長にある現象かと思われます。
さて、そろそろ今回はこれくらいに…と思っているところですが、ここでいきなりちゃぶ台返し的に「そもそも生物全般が本能として痛みを恐れているのでは?」とうご意見もあるかも知れませんが、痛み自体を恐れるという感覚は抱かないように思います。犬や猫を見ていますと、生命を脅かされることや怪我をしそうな危機に直面した時などには恐れおののいて吠えたり暴れたりもしますが、怪我をしたり病気になった際は、その痛みの中にあって彼らは至って冷静です。そして、その痛みの原因を少しでも取り除くために自分が出来得る行動を速やかにひたむきに遂行します。
人間も生物ですから、元々の本能として前述のごとく痛みとは冷静に向き合える筈で、パニック状態やヒステリー状態になるのは、決して本能がそうさせるのではなく、やはり「痛み」=「直ちに回避すべき悪いこと」という擦り込みを、権力のある先人たちが長期的に行ったが為に獲得させられてしまった❝価値観❞がそうさせるのだ、と僕は思っています。
何度も言います。痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれるものです。
それでは今回はこの辺で…次回は慢性的な痛みについて考察していこうかと思っています。
★12月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう… 香野
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
「痛み」って何者ですか? ~その肆(4)~
毎月1回お届けの整体コラム2019年11月号のバックナンバーをお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*11月号 「痛み」って何者ですか? ~その肆(4)~
強烈な台風が目前に迫っています。今回も前回に引き続き「痛み」についての考察をしていこうと思いましたが、僕自身が台風に備えるため&皆さまに台風に備えていただくために、今月のコラムは一度お休みにしたいと思います。
皆さま、台風に備えて体調と精神を整えてください。そして、食料の確保よりも水の確保を優先してください。人は食べなくても数日は健康を維持できますが、水を飲まないと直ぐに健康を害します。また、非常事態になった際は「普段と近い生活を維持すること」を一旦忘れ、「生き延びること」を全ての判断基準に行動してください。
それでは皆さま、お気を付けて待機してください。失礼いたします。
★11月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。また来月、ここでお逢いしましょう… 香野
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
「痛み」って何者ですか? ~その参~
毎月1回お届けの整体コラム2019年10月号のバックナンバーをお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*10月号 「痛み」って何者ですか?
~その参~
「もうそろそろ涼しくなる筈だ」、そんな期待に無頓着になるとちょっぴりカラダが楽になる今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
今回も前回に引き続き「痛み」についての考察をしていこうと思います。
ここ最近、何かに取り組む前の意気込みなどを述べる際に「後悔はしたくないので…」というフレーズを交えながら熱く誇らしげに語っている若い方をよく見かけます。話の筋は概ね「後悔をしない為の万全の準備や努力を例えばこんな風にしていこうと思ってます」と言っているのです。
「わたくしはここにいらっしゃる皆さまとは違って、後悔すると立ち直ることのできない弱い性格でありまして…」ということなのでしょうか? いや、違うでしょう。彼らの語り口調は決してへりくだっている様子ではありません。
この「後悔をしない為に頑張る」という価値観は、今や若い大人世代のスタンダードになって来ているようにも思えます。
彼らがそれほどまでに後悔を恐れる理由は、一体何なのでしょうか?
そもそも後悔することって、そんなに良くないことでしたでしょうか?
思えば僕が少年の頃(1970年代)、ことの予測とリカバリーが難しかった時代(当然、携帯電話もインターネットもパソコンもコンビニもないわけですから…)の中を、大人たちは皆夢中に生き、新しいことに躊躇なくぶつかっていきながら、その度に「うゎ~、失敗したぁ~!もっと〇〇しておけば良かったぁ~!」とハツラツと反省して、これまでの自分を正していくことを楽しんでいました。そう、後悔している姿とそこから勢いを増して生きようとする様がとてもカッコ良かった…僕はそんな景色を見ながら「早く大人になりたいなぁ」と思ったものです。
一方、❝後悔恐怖症❞な人たちは、「痛い思い」を遠ざけながら、一体何処へどう向かって行くつもりなのでしょうか?
もしや、彼らが後悔を恐れるのは「自分のこれまでを否定される思いをせず&させられずに生きてゆきたい」という不動の心境が根底にあるからなのかも知れません。つまり自己の変化が億劫なのです。変化を強いられる際には、そこには必ず、これまでの自分に対する反省と新たなる未経験の行動が伴います。それが嫌なのでしょう。自信はないけどプライドは高いというか… さておき!
誰であれ、人が長い道のりを生きて行こうとする上で、とても大切なのは「後悔をしないこと」や「痛い思いをしないこと」では無く、「後悔を恐れないこと」=「痛い思いと真摯に向き合うこと」であり、またその前段として、若年のうちに「後悔に負けない頑丈な心身を養っておくこと」=「痛い思いを沢山経験しておくこと」がとても重要である、と僕は思うのです。
さて、勘の良い方はもうお気づきになられたことと思いますが、これは抵抗力、即ち免疫の話と同じなのです。
前述の事項は、昨今問題になっている若年層における免疫力の低下(症状として、アレルギー、低体温、慢性疲労、鬱、引きこもり…)と、決して無関係ではありません。
衛生環境が整い、怪我もしない安全な社会に生まれ育った生物は、その抵抗力に問題が生じやすい…言い方を変えれば、菌や侵入してきた異物(食物も含め)を味方に付けるよう自らをコントロール、或いは変化させてゆく能力が劣りがちなのです。
「痛い思い」は、環境適応力を身に着けるために不可欠なファクターであり、そこと向き合い乗り越えることでリニューアル(≒進化)を絶えず繰り返して生きてゆくという前提で、自然や社会から敢えて与えられる筈のものです。
ですから、生物学的に❝後悔恐怖症❞を考察すると、「環境適応を拒絶する体質が備わってしまっている」ということで、これは種の保存の法則からしては絶対的タブーです。
痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれるものです。
ではここで、8月号巻末での問い掛けをもう一度引用させていただきます。
なのに何故、今日皆さんは痛みをそれほどまでに忌み嫌うのでしょうか…?
何故、痛みを感じること事態から逃れようとし、痛みを抑え込もうとするのでしょうか…?
「だって痛いのはただそれだけでカラダに良くないでしょ!」…ってそれ、本当でしょうか?
カラダに良くないのは痛みを発生させている原因であって、痛みそのものでは無いのではないでしょうか?
僕が身を置いている補完代替医療という領域は、病気にならないための予防医学が大きな柱となっているのですが、この予防医学においては「病気にならないこと」が重要なのであって、「痛くならないこと」が重要なのではないのです。
そして所謂お医者さんに掛かる領域=医療に於いてもそれは本来同様で、「病気を治すこと」が重要なのであって、「痛みを止めること」が重要なのではない、と僕は考えています。
僕の臨床に於いて…いや、世界中の療術師にとっても同様だと思いますが、痛みの原因を突き止め、更にそれを解決していくためには、痛さの度合いや性質がどのようにどうであるかという情報がとても重要で、それをもとにその変化と向き合いながら我々は施療を進めていくわけです。
ですが、お客さんの中には「一昨日急に〇〇のところが痛くなったんで、昨日整形外科に痛み止め貰いに行って…だから今はそんなに痛くないんですけど…」というようなケースが結構あって…これ、困るのです。
「痛み止めが切れたらまた痛くなるんじゃないか」という心理を持ちながら受けた施術は、その効果が不安定なものになり易く、また、術者と被術者の双方が、痛みが軽減されていく過程をリアルタイムで共有していくことは、被術者が健康体を取り戻す上でとても重要なことなのです。
ここで皆さんに覚えておいて頂きたいのは、「痛みを取る」と「痛みを止める」のとは、全く意味が異なるということです。
「痛みを取る」というのは、痛みの原因を改善させていこうとするカラダを健康な状態へ導く行為であるのに対し、「痛みを止める」というのは「痛い筈なのに、痛くなくす」ということで、これは、カラダから提供された痛みの原因を解決するための情報を拒絶する、或いは隠蔽(いんぺい)する行為です。
勿論「痛みを止める」ことが生き続ける上で必要な時もあります。大病をされた方、またそうなった状況の人を看病された方、実体験として知っていらっしゃると思います。
ただここで言っておきたいのは、痛みに対して過剰に臆病になってはいけないということ、そして、先にも述べたように、痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれる、ということです。
痛みから逃げる習慣を身に着けてしまうと、カラダは自分で痛みの原因を解決する能力を失ってゆきます。小さな痛みから逃げる習慣は、やがて「止める」しかできない大きな痛みを呼び寄せてしまうのです。
この続きはまた次回に。
我々が痛みに臆病になった社会的背景にも触れながらが、「痛み」との向き合い方などを考察していきたいと思います。
★10月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう… 香野
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