「痛み」って何者ですか? ~その参~
毎月1回お届けの整体コラム2019年10月号のバックナンバーをお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*10月号 「痛み」って何者ですか?
~その参~
「もうそろそろ涼しくなる筈だ」、そんな期待に無頓着になるとちょっぴりカラダが楽になる今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
今回も前回に引き続き「痛み」についての考察をしていこうと思います。
ここ最近、何かに取り組む前の意気込みなどを述べる際に「後悔はしたくないので…」というフレーズを交えながら熱く誇らしげに語っている若い方をよく見かけます。話の筋は概ね「後悔をしない為の万全の準備や努力を例えばこんな風にしていこうと思ってます」と言っているのです。
「わたくしはここにいらっしゃる皆さまとは違って、後悔すると立ち直ることのできない弱い性格でありまして…」ということなのでしょうか? いや、違うでしょう。彼らの語り口調は決してへりくだっている様子ではありません。
この「後悔をしない為に頑張る」という価値観は、今や若い大人世代のスタンダードになって来ているようにも思えます。
彼らがそれほどまでに後悔を恐れる理由は、一体何なのでしょうか?
そもそも後悔することって、そんなに良くないことでしたでしょうか?
思えば僕が少年の頃(1970年代)、ことの予測とリカバリーが難しかった時代(当然、携帯電話もインターネットもパソコンもコンビニもないわけですから…)の中を、大人たちは皆夢中に生き、新しいことに躊躇なくぶつかっていきながら、その度に「うゎ~、失敗したぁ~!もっと〇〇しておけば良かったぁ~!」とハツラツと反省して、これまでの自分を正していくことを楽しんでいました。そう、後悔している姿とそこから勢いを増して生きようとする様がとてもカッコ良かった…僕はそんな景色を見ながら「早く大人になりたいなぁ」と思ったものです。
一方、❝後悔恐怖症❞な人たちは、「痛い思い」を遠ざけながら、一体何処へどう向かって行くつもりなのでしょうか?
もしや、彼らが後悔を恐れるのは「自分のこれまでを否定される思いをせず&させられずに生きてゆきたい」という不動の心境が根底にあるからなのかも知れません。つまり自己の変化が億劫なのです。変化を強いられる際には、そこには必ず、これまでの自分に対する反省と新たなる未経験の行動が伴います。それが嫌なのでしょう。自信はないけどプライドは高いというか… さておき!
誰であれ、人が長い道のりを生きて行こうとする上で、とても大切なのは「後悔をしないこと」や「痛い思いをしないこと」では無く、「後悔を恐れないこと」=「痛い思いと真摯に向き合うこと」であり、またその前段として、若年のうちに「後悔に負けない頑丈な心身を養っておくこと」=「痛い思いを沢山経験しておくこと」がとても重要である、と僕は思うのです。
さて、勘の良い方はもうお気づきになられたことと思いますが、これは抵抗力、即ち免疫の話と同じなのです。
前述の事項は、昨今問題になっている若年層における免疫力の低下(症状として、アレルギー、低体温、慢性疲労、鬱、引きこもり…)と、決して無関係ではありません。
衛生環境が整い、怪我もしない安全な社会に生まれ育った生物は、その抵抗力に問題が生じやすい…言い方を変えれば、菌や侵入してきた異物(食物も含め)を味方に付けるよう自らをコントロール、或いは変化させてゆく能力が劣りがちなのです。
「痛い思い」は、環境適応力を身に着けるために不可欠なファクターであり、そこと向き合い乗り越えることでリニューアル(≒進化)を絶えず繰り返して生きてゆくという前提で、自然や社会から敢えて与えられる筈のものです。
ですから、生物学的に❝後悔恐怖症❞を考察すると、「環境適応を拒絶する体質が備わってしまっている」ということで、これは種の保存の法則からしては絶対的タブーです。
痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれるものです。
ではここで、8月号巻末での問い掛けをもう一度引用させていただきます。
なのに何故、今日皆さんは痛みをそれほどまでに忌み嫌うのでしょうか…?
何故、痛みを感じること事態から逃れようとし、痛みを抑え込もうとするのでしょうか…?
「だって痛いのはただそれだけでカラダに良くないでしょ!」…ってそれ、本当でしょうか?
カラダに良くないのは痛みを発生させている原因であって、痛みそのものでは無いのではないでしょうか?
僕が身を置いている補完代替医療という領域は、病気にならないための予防医学が大きな柱となっているのですが、この予防医学においては「病気にならないこと」が重要なのであって、「痛くならないこと」が重要なのではないのです。
そして所謂お医者さんに掛かる領域=医療に於いてもそれは本来同様で、「病気を治すこと」が重要なのであって、「痛みを止めること」が重要なのではない、と僕は考えています。
僕の臨床に於いて…いや、世界中の療術師にとっても同様だと思いますが、痛みの原因を突き止め、更にそれを解決していくためには、痛さの度合いや性質がどのようにどうであるかという情報がとても重要で、それをもとにその変化と向き合いながら我々は施療を進めていくわけです。
ですが、お客さんの中には「一昨日急に〇〇のところが痛くなったんで、昨日整形外科に痛み止め貰いに行って…だから今はそんなに痛くないんですけど…」というようなケースが結構あって…これ、困るのです。
「痛み止めが切れたらまた痛くなるんじゃないか」という心理を持ちながら受けた施術は、その効果が不安定なものになり易く、また、術者と被術者の双方が、痛みが軽減されていく過程をリアルタイムで共有していくことは、被術者が健康体を取り戻す上でとても重要なことなのです。
ここで皆さんに覚えておいて頂きたいのは、「痛みを取る」と「痛みを止める」のとは、全く意味が異なるということです。
「痛みを取る」というのは、痛みの原因を改善させていこうとするカラダを健康な状態へ導く行為であるのに対し、「痛みを止める」というのは「痛い筈なのに、痛くなくす」ということで、これは、カラダから提供された痛みの原因を解決するための情報を拒絶する、或いは隠蔽(いんぺい)する行為です。
勿論「痛みを止める」ことが生き続ける上で必要な時もあります。大病をされた方、またそうなった状況の人を看病された方、実体験として知っていらっしゃると思います。
ただここで言っておきたいのは、痛みに対して過剰に臆病になってはいけないということ、そして、先にも述べたように、痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれる、ということです。
痛みから逃げる習慣を身に着けてしまうと、カラダは自分で痛みの原因を解決する能力を失ってゆきます。小さな痛みから逃げる習慣は、やがて「止める」しかできない大きな痛みを呼び寄せてしまうのです。
この続きはまた次回に。
我々が痛みに臆病になった社会的背景にも触れながらが、「痛み」との向き合い方などを考察していきたいと思います。
★10月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう… 香野
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