整体に整体師は要らない!?

整体師範 香野勇雄 のブログです。

「痛み」って何者ですか?~その陸~

こんにちは。江の島整体「癒芽身」の副店長 香野です。

毎月1回お届けの整体コラム2020年1月号をお届けします。

 

*整体に整体師は要らない!?*月号 「痛み」って何者ですか?~その

 

新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

一気に冬本番へと加速してきた今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?

本編へ入る前にこの場を借りて、年明け冒頭いきなりのインフォメーションで失礼します。

 

只今江の島整体「癒芽身」では施術スタッフを募集しています。詳細は香野までご連絡を!

 

というわけで、今回も「痛み」についての考察をしていきましょう。

 

皆さんは「コップの水理論」というのをご存知ですか?

これはオーストリアの著名な経営学ドラッカー氏が説いたものなのですがっていきなり経営論?ちょっと方向違ってない?って?いえいえ、まぁ待って下さい。この理論は、起こった出来事をどう見るかでその先がどう変わってゆくのか、ということを象徴的に言い得ていて、見方を工夫すると整体においても大切な教訓として咀嚼できるものだと僕は思っているので、ここでちょっとご紹介&掘り下げさせてもらいます。

 

半分だけ水の入ったコップを見た時、あなたならそれをどう評価するでしょうか

コップに水が半分残っている? コップから水が半分減っている? と、ここまでのくだりは、ポジティブ思考 VS ネガティブ思考の判別テストなどで馴染みのある人も多いかと思います。

 

「そうそう!半分も入っているって感じられる人はポジティブ思考で勝ち組の人の共通点なんだよね!」いえ、そんなことではございません。

さてドラッカー氏はどのように説いたのでしょうか

 

「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」(ドラッカー

 

イノベーションとは「革新」の意味で、経営学用語としては「技術革新」「新しい切り口」など、新しいアイデアなどから社会的に大きな変化をもたらす価値のある変革を指す時にあてられる言葉のようです。

 

つまり、コップの空いている容量に意識を向けた時、今までとは違う新たな価値あるものを得るチャンスが訪れるというん〜、経営論にとどまらず、人生論としても考えさせられる哲学的な格言のようにも思えてきます。

 

この理論は、以前僕のセミナーで「若さの再生」をテーマに講義した際に引用させていただくにあたって改めて勉強することになったのですが、その時に「あ、似てるなぁ」と思いました。それは、僕が慢性痛に悩むお客さんに「痛みとの上手な向き合い方」をカウンセリングする時の説明と、比喩の構造みたいなところがとても似ていると感じたのです。

 

では、僕のカウンセリングでの文句をお聞かせする前に、僭越(せんえつ)ながら、ドラッカー氏の理論を「痛み」になぞらえて言い換えてみようと思います。

 

「痛みが『半分残っている』と『半分減った』とは、痛みの大きさとして同じである。だが、意味はまったく違う。来るべき状況も違う。あなたの認識が『半分残っている』から『半分減った』に変わるとき、その痛みと決別する機会が生まれる」

 

どうでしょうか、「な、なんか分かる気がする、それ」という、漠然とだけれど納得できる感覚を得た方、結構いらっしゃるのではないでしょうか?

因みに、僕は慢性痛の方に、以下のように痛みとの向き合い方のアドバイスをしています。

 

「最高に辛かった時の痛みが10割だったとして、今はその4割くらいになっているとしたら、その残った4割の痛みに執着せず、減った6割の痛みに感謝してその喜びをカラダに伝え、痛みを減らすことに成功したカラダを褒めてあげてください。そうしていくうちに痛みは4が2になり、1になりと減ってゆきます。でも『まだ6痛い』というように、残った痛みに意識を奪われると、その痛みは中々減っていかないし、場合によっては10の痛みに戻ってしまうこともあります」

 

念の為おことわりしておきますが、このアドバイスでお客さんを暗示に掛けてコントロールしようとしているのではありません。臨床や自分の体験も含め、痛みについての学習を僕なりにしてきた末のアドバイスなのです。

 

実際に、意識を上記のように変えるよう心掛たことで、何年か越しの痛みから開放されて喜んでいる僕のお客さんの数は少なくありませんので、現在長引いている痛みをお持ちの方、是非試してみてください。

 

さて、話を進めましょう。

慢性痛に苦しむ方の多くは「残った痛みに執着しがち」という傾向にあります。彼らは、どうしても痛みの減り幅に意識を寄せらず、痛みの残量に執着してしまいます。例え残った痛みが僅かであっても、それに昼夜意識を向け、目を近付けて凝視するように痛みを監視し続けることで、全意識の中でその比重が増大し、痛みと決別することが困難になってしまうのです。前述のアドバイスにもあったように、人によっては元の痛みの大きさに戻ってしまったりもします。

 

ただ、減り幅を意識できる人&残量に執着しがちな人、何れのタイプであっても「痛みと決別したい!」という純粋な意思=本心があれば、やがてそれは時間の差こそあれ実現に向かうのだと、僕はそう思っています。逆の言い方をすれば、痛みがなくなる際には、そこに「痛みと決別したい!」という本心が必ずや存在している、ということです。

 

さて、今、敢えて「本心」という言葉を持ち出しましたが、慢性痛の中には非常に厄介なケースがあります。それは「痛みと決別したい!」と思っていながらも、実はそれが「本心」ではない、といったケースです。

 

その根底にあるのは「改善を認めたがらない」=「治りたくない」という心理で、これが自我の奥底に潜んでいると、痛みを大切に保持し続けてしまうのです。

 

前回のコラムでお話しした疾病利得(しっぺいりとく)もそうなる理由の一つなのですが、こうなってしまう現象の総称を「心理的逆転(しんりてきぎゃくてん)」と言います。

 

次回はこの心理的逆転」が創り出す慢性痛について考察していこうと思います。

それでは今回はこの辺で

 

月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。

それではまた来月、ここでお逢いしましょう 香野 

 

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