「痛み」って何者ですか?~その肆(4)・仕切り直し編~
毎月1回お届けの整体コラム2019年12月号のバックナンバーをお届けします。
*整体に整体師は要らない!?*12月号 「痛み」って何者ですか?~その肆(4)・仕切り直し編~
やっと秋が来た感じだなぁ…あれ?もうすぐ年末じゃないですかぁ!という感じの今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか?
前回は台風直前だったため一回コラムはお休みしましたので、前々回に引き続き…の今回。「痛み」についての考察をしていこうと思います。
いきなり質問からスタートします。
皆さんは不安になった時、どんな行動を取りますか?
・知人、友人に相談する
・不安を忘れようと何かをして気を紛らわせる
・不安を解決するための商品を買う
・不安をもたらした対象について本やインターネットで調べる
etc.
と、まだあるかとは思いますが、大体こんなところでしょうか…
では反対に、安心した時、どんな行動を取りますか? どうでしょうか、思い当たることが中々見つからないのではないでしょうか? そう、安心したら特に何もしないですよね。
つまり、人は不安になると新たな行動を取る、安心したら今までどおりの日常に戻る、ということで、強烈な不安に包まれるとそれを解消することを最優先に元々の生活を変化させたりもします。
そして、どんな不安解消であれ、共通していることがあります。
「お金を使う」ということです。
相談する相手に会うにしろ、メールするにしろ、電話をかけるにしろお金を使います。
気を紛らわせようとゲームをするにしろ、映画を見るにしろ、お酒を飲むにしろお金を使います。
解決させる商品購入は勿論、不安因子のリサーチの際にもお金を使います。
言い方を変えれば、人は不安になるとお金を使うことでそこから解放されようとするのです。
これは近世の経済機構の根本であり、不安こそが経済を動かしている、と僕はそう思っています。
逆に全ての人々が安心したら経済は崩壊してしまうでしょう。現状に満足であるという価値観が蔓延する世の中ではお金が移動しないのです。
「安心は金を産まないが不安は金を産む」というのが資本主義経済のセオリーになっていて、世の中に常に新しい不安因子をばら撒き続けると、経済は生き物であり続けるのだなぁと、僕は悲しい気持ちで現代という時代を見つめています。
今日、人間が痛みに対して臆病である現況は、そのマス操作によって意図的に作られたものであると言って良いかと思います。即ち我々は元々痛みに臆病なのではなく、臆病にさせられてしまったわけで、その結果、痛い=悪いこと→不安→消費(薬を買う、サプリを買う、医者に見せる、etc)という図式を何の疑いもなく実行しているのです。
マス媒体(一部の宗教も含む)を取り仕切る人々が、個人の健康(≒幸せ)よりも社会の経済効果を優先する政治に寄り添う時代が長く続いたことが、人々に痛みと不幸を直結して考える習慣を蔓延させました。これは近世が犯した大罪の一つです。先進国の人ほど長く生きること(=人生の長さ)に強迫観念的な執着を持つのも、その延長にある現象かと思われます。
さて、そろそろ今回はこれくらいに…と思っているところですが、ここでいきなりちゃぶ台返し的に「そもそも生物全般が本能として痛みを恐れているのでは?」とうご意見もあるかも知れませんが、痛み自体を恐れるという感覚は抱かないように思います。犬や猫を見ていますと、生命を脅かされることや怪我をしそうな危機に直面した時などには恐れおののいて吠えたり暴れたりもしますが、怪我をしたり病気になった際は、その痛みの中にあって彼らは至って冷静です。そして、その痛みの原因を少しでも取り除くために自分が出来得る行動を速やかにひたむきに遂行します。
人間も生物ですから、元々の本能として前述のごとく痛みとは冷静に向き合える筈で、パニック状態やヒステリー状態になるのは、決して本能がそうさせるのではなく、やはり「痛み」=「直ちに回避すべき悪いこと」という擦り込みを、権力のある先人たちが長期的に行ったが為に獲得させられてしまった❝価値観❞がそうさせるのだ、と僕は思っています。
何度も言います。痛みは現況の自分を改善する為のより良い「方向」と「方法」を示唆してくれるものです。
それでは今回はこの辺で…次回は慢性的な痛みについて考察していこうかと思っています。
★12月号をお読みいただきありがとうございました。皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。
それではまた来月、ここでお逢いしましょう… 香野
*当コラムの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。